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落合恵子さんの「海からの贈物」



 落合恵子さんが翻訳されたアン・リンドバークの「海からの贈物」を、その一行一行を検証してその全文を厳しく批判したサイトがある。このサイトでは落合訳は犯罪的な偽造とまで酷評されている。これはネットがつくりだす罵詈雑言、非難中傷といったたぐいのものではなく、英語のよくわかる人物が、「Gift from the Sea」の真価を守るために、膨大な時間を投じてこのサイトを立ち上げたのだろう。その全文が熱情をもって打ち込まれている。

 おそらく落合さんの英語力は私と同程度のものであり、とうてい翻訳する力などないが、とにかくこの本の素晴らしさを若い仲間に伝えたいという一身から、吉田健一訳に導かれてというか、吉田健一訳を捏造しながら立ち向かっていったということなのだろう。要するに落合さんが世に放った「海からの贈物」は、落合さんの言葉で編み上げていった落合さんのメッセージソングみたいなものだった。アンは詩人でもあった。だからその英文は詩情にあふれているが、気の毒なことに落合訳には、その詩情がことごとく失われて、ただ殺伐としたメッセージソングになってしまった。

 吉田健一の訳はだれもが唸るばかりの見事な訳で、英語という言語を知り尽くし、真正の日本語を紡ぐ力をもっている人に手にかかった名訳である。貧弱な英語力しかない私はこの吉田訳に導かれて、原文がより鮮明に理解できるようになったのだが、しかし次第にこの吉田訳に別の光が差し込んでくるのだ。

 私はアン・モロー・リンドバーク(吉田健一訳ではいまだに著者名はリンドバーク夫人になっているが、落合訳ではアン・モロー・リンドバークと本名を記して一人の女性として確立させている)を主題にした三本の戯曲に取り組んだこともあって、「海からの贈物」の英文をそらんじるまでに繰り返し親しんでみるとき、吉田健一が紡いだ文体は男の旋律、男が歌い上げる声と歌であって、女性が紡ぐ日本語、女性の旋律、女性が歌い上げる声と歌を聞きたいと思うようになるのだ。

 往年の名優であるクローデッド・コルベールがこの「Gift from the Sea」を朗読している。その朗読を繰り返し聞くとき、その原文の旋律は吉田健一訳ではない。例えば、「海からの贈物」の冒頭に次のようなフレーズがでてくる。

But it must not be sought for or─heaven forbid! ─dug for. No, no dredging of the sea bottom here. That would defeat one’s purpose. The sea does not reward those who are too anxious, too greedy, or too impatient. To dig for treasures shows not only impatience and greed, but lack of faith. Patience, patience, patience, is what the sea teaches. Patience and faith. One should lie empty, choiceless as a beach─waiting for a gift from the sea.
しかしそれをこっちから探そうとしてはならないし、ましてそれが欲しさに砂を掘り返したりすることは許されない。海の底を網で漁るようなことをするのはここでは禁物で、そういうやり方で目的を達することはできない。海はものほしげなものや、欲張りや、焦っているものには何も与えなくて、地面を掘り返して宝ものを探すというのはせっかちであり、欲張りであるのみならず、信仰がないことを示す。忍耐が第一であることを海は我々に教える。忍耐と信仰である。我々は海からの贈物を待ちながら、浜辺も同様に空虚になってそこに横たわっていなければならない。(吉田健一訳)

 このフレーズの目玉は《Patience, patience, patience》と、Patienceが三度繰り返される部分だが(吉田訳ではこのくだりは別の表現でなされている)、コルベールはこの部分を母がわが子に、あるいは若い読者に諭すように朗読されている。「海からの贈物」は現代という時代に鋭く切り込んだ思索的、あるいは哲学的エッセイだが、しかしその文体はあくまでも柔らかく慈愛に満ちていて、いってみればアルトソプラノといった声調なのだ。

 朗々と雄渾に響きわたる、いってみればテノールかバスの声調で編み上げた吉田健一訳に匹敵する、アルトソプラノで紡がれていく日本語訳が登場するのは待っているのは私だけではない。詩情にあふれた美しい日本語が聞きたい。

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