はてしない気圏の夢をはらみ 星寛治
朝明けの美しい国を歌う詩人
星寛治さんの第二詩集「はてしない気圏の夢をはらみ」(世織書房刊)を、詩人の松永伍一さんは辛口の批評をしているが、ぼくはちょっとちがった印象をもっている。なるほど現代詩と呼ばれる地帯に生棲している詩人たちからみると、星さんの詩はずいぶん甘く感じられるに違いない。しかしそれは文字どおりの甘さであって、この甘さこそ星さんの詩人としての肉体なのだという印象を持つのだ。例えばチャイコフスキーの音楽は甘い。しかしあの優美な旋律をだれもアマイなどとはいわない。星さんの詩の生命はこの言葉の旋律の甘さなのであって、この甘さこそ現代詩が陥っている袋小路から脱出するための、一つの大きな力だとぼくは思うのだ。
例えば「朝明けの美しい国」というような詩をかける詩人は、もはやこの国には一人もいないだろう。ミレーの絵画を彷彿とさせるイメージ、ろうろうたる牧歌の響き、素朴で強靭なロマンチシズム。これらが織りなす甘い旋律はいったいどこからきたのか。実はこの甘さは「有機農法のリアリズムが詩人の胸をヒリヒリと焼き、うたいあげる饒舌をみずから打ちのめし」た果てにあらわれてきたのだった。詩人の立っている大地は少しも廿くないのだ。危機はひたひたとせめよせる。牛舎をもかかえる労働はいぜんとして厳しい。しかし裏切られても裏切られても詩人は「朝明けの美しい国」を歌わなければならなかったのだ。
言葉はなるほど火傷の度合いは少ない。しかし星さんはむしろ言葉を火傷させることを避けているようにみえる。かわってこの詩人が力を注ぐのは言葉に音楽の精をふきこむことだった。言葉の弦は十分に鳴っているのだ。底深いチェロが、優美なヴァイオリンが。しかしこの詩人がもっとも愛するのはビオラのようにみえる。ビオラのあの温もりをもった響きが悲しいまでに鳴っている。叙情の色調のなかにしきりに叙事詩の色彩を塗り込めようとしている。歴史や人生を描くためには叙事詩の骨格といったもので捕強しなければならない。言葉は平明だ。だれにでもわかる言葉でかかれている。それもまた言葉と格闘してきた三十余年という年月がうみだしたこの詩人の肉体なのだ。
現代詩という潮流を形勢している現代詩人たちの詩は、十分に言葉を火傷させたための難解さのようにみえる。しかし彼らの言葉を手にとっても、そこに深い思想の感触を感じることはほとんどない。彼らの言葉のささやきに耳を傾けても、鳴っている音楽はもうあきれるばかりに退屈だ。結局彼らには本質的に詩人の魂というものがないのだ。その欠陥をひたすら難解な言い回しによって糊塗しているだけのように思える。ぼくが彼らの詩を嫌悪するのは、彼らの詩には人生というものがないからなのだ。彼らは本当の人生というものを生きていないのだ。いわゆる現代詩人たちと呼ばれている人たちの大半が大学の先生たちだった。およそ大学教授たちほど人生というものを知らない人種はいない。人生を知らない人間たちが、どんなに言葉をいじくりまわしこねくりまわしても生命の言葉などが生まれてくるわけがない。
どうして詩が大学の先生たちの知的遊戯といったものに堕してしまったかというと、どうもこれはT・S・エリオットの「荒地」あたりの詩が、変節し変調して日本に導入され根づいてしまったあたりにあるように思うのだ。この奇妙にねじまがった詩の流れをどうしたら生命をたたえた本来の詩の潮流に引き戻していくことができるのか。それはもうたった一つしかない。裏られても裏切られても「朝明けの美しい国」を歌わねばならない人たちが言葉に立ち向かい、言葉の核心である詩を刻みこみはじめる以外には。働いても働いても豊かにならない人々が、背負っても背負っても背負いきれない荷をかかえた人々が、この世の矛盾この世の悲劇をその全身に浴びている人々が、言葉の力にめざめ、その苦悩や絶望や祈りを言葉のなかに流しこむという行為に立ち向かっていく以外には。詩というものは温室のなかにいる人たちのものではなく、荒野のなかに立つ人々のものなのだ。
詩集は今やよく売れたとしても千部をこえたらベストセラーといわれるばかりの小世界になってしまった。それは当然のことだった。書斎で生きている人間たちの言葉の遊びなどを、だれがわざわざ金を投じて買うものか。この沈滞の詩集のなかで星さんの詩集は、宣伝力をもった出版社が当たり前の宣伝費をかけて売り出せば、詩集は売れないという定説をあっさりと覆すような売れ方をするように思うのだ。星さんの詩には甘さがあるからだ。人の心のなかで甘い旋律を奏でることができる生命力をたたえているからだ。そしてこの甘さの底に強烈に織りこめられている命題に読者はすぐに気づく。人間はどう生きるべきかという命題に。これこそ星さんが繰り返し繰り返しその詩の中に織りこんでいる命題だった。星さんの読者は今はほんの数えるほどしかいない。しかしひとたびこの詩に出会ったとき、とりわけ柔らかい感受性をもった若者たちは、なにか魂の底が動いていくような思いにとらわれる。そして乾いた魂を潤すかのように高畠にでかけていき、何人もの若者たちが高畠に移住することを決意をするのだ。
わずか十数行数十行の詩がなぜ人をかくも動かすのか。詩とは言葉の核心だからだ。そして人間は言葉をたよりとして生きる動物だからだ。その詩の本質を佐渡谷さんはこう書く。「1967年秋、私はたまたまイェール大学の研究員としてアメリカに滞在していた。多くの若き学生たちが一枚の召集令状によってヴェトナムに赴く姿に出逢ったことがある。ふたたび祖国の土を踏むことは夢かもしれぬ。彼らは眼に涙を浮べ、黙々とリュックサックに必要なものをつめる。その中に、一冊の緑の表紙をつけた本があった。それは『草の葉』であった。若き学生たちは、いま死に立ち向かうにあたって、ホイットマンの絶叫した《自由》と《民主主義》を秘そかに渇望していたのであろう。いや渇望するだけでなく、ホイットマンによる愛と救済を異国の地で実現しょうとしていたのである。かくして、若者たちは「草の葉」の精神を己れの魂の中に刻み込んで出陣していった」(ホイットマン著「民主主義の展望」のあとがきより)
朝明けの美しい国
朝やけの美しいくにの話を聞いた
墨絵の森に
雄鶏のこだまが交う頃
人びとは一斉に野良に出る
青砥石をあてた鎌は
名刀の切れ味だ
腰をかがめ
水玉の返りを浴びて
いきのいい草を刈る
おお、地の涯を染めて
いま、太陽が昇るときだ
紫の空がこんなにも素早く
橙色に変わるときだ
足元に衝動のようにつたう
大地のめざめ
その瞬間に立ち会うために
ひとはみな早起きなのだという
森の美しいくにの話をきいた
千古の呼吸が息づく
蒼い樹海のなか
ひそかに妖精が舞うという
森の小さな賢者たちは
豊穣の大地に耳をあて
青い地球(ガイア)の心音を聞いた
地層の底の水の流れも
もっと深く火のたぎりも
白日の美しいくにの話を聞いた
見はるかす緑の絨毯が
やがて山吹色の穂波に変る
光と風のむら
少年のすばやい手鎌が
重いみのりを刈り
少女のしなやかな掌が
べっ甲色の千粒をすくい上げる
夕やけの美しいくにの話を聞いた
一日の仕事の終りに
地の涯を染めて
太陽が沈むとき
夫婦は手をあわせ
すがやかな身を祈る
その手はみな
イワンのくにの人のように
豆だこに飾られているが
白魚の手の指輪よりも
百倍もまぶしく輝いている
モミの樹の広場では
鼓笛のひびき、歌の波
疲れを知らぬ踊りの渦
星座とひとが響き合う
野も森も
母も子も
ふかい眠りについた
地に棲むいのちをみな
夜露がやさしく包む
その頃、地の涯では
あたらしい朝が生まれるという
「朝明けの美しい国を歌う詩人」は《草の葉ライブラリー》刊「星寛治」読本の所収。
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