オランダ運河のタカシ通り 1
20020年6月11日号 目次
オランダ運河のタカシ通り 1
君は素敵なレディになれる 2
あなたが欲しい 3
珈琲亭・白鯨(モービィディック) 4
めぐりあう時間
大作のスケッチ
オランダ運河のタカシ通り 1
「お一い、弘さん。弘せんせ一い」
通りの向こう側から男が叫んでいた。長太だった。
「お茶でも飲まないか」
「いや、いま仕事中なんだがな」
と弘も叫んだ。
「かまうものか。だれもみてやしないよ」
「いや。それがあちこちで見られているんでね」
と二人は通りをはさんで大声で叫んでいる。昼下りのゼームス坂を車はせわしく通るが人影は少ない。しかしそれでも人は歩いているのだ。
車がとぎれると長太が通りを渡ってきた。そして弘の腕をとると強引に、
「ちょっとさ、十分ぐらいいいだろう」
その坂の中腹にある〈アシビ〉という喫茶店のドアを押していた。
「どうだった、今年のアラスカは?」
と弘は訊いた。長太は今年の夏アラスカに蝶の採集にいっていた。
「いつもながら、あそこにいくと帰りたくなくなるんだ、日本には」
「いい所らしいね」
「ぼくのような人間には桃源郷のような世界だね。なんにもないけど」
「また珍蝶でもとってきたの」
「オオタカネヒカゲとメスキツマキチョウね。これはちょっとばかしすごいんだ」
「昨年はオオカバマダラとか言ってたね」
「そう。これで二大目的がほぼ達成されたよ。あそこはぼくの描く蝶前線の最北端に位置するけど、これで面白い仮説を裏付けることができた。ちょっとした論文が書けるかもしれないな。ほんとうはアラスカに長期滞在して書きたかったけど」
そして長太は、しきりにその壮大な仮説を披歴しはじめた。
その仮説を裏づけるために、長太は南はインドネシアからパプアニューギニア、西は韓国や中国にでかけたりしている。はじめて長太に会ったとき、なんとこの人は壮大な夢のなかを生きているのだろうと思い、そんな壮大な仮説を我れと我が身に課していることがうらやましかった。しかしそのためにずいぶん大きな犠牲を払っていることも知るのだった。
彼の経営する塾は小さな塾だからけっして豊かではない。だから外国遠征するためには塾が終わってからも家庭に出向いて家庭教師をやったり、ときには朝学習といって朝の六時ごろから受験生の家をまわったりして、その遠征費を稼ぎだしているのだ。そんな自分自身をあざ笑うように、長太は、
「まあ、こんなヤクザなことをしているから、妻や子供たちに逃げられるんだね。野暮な仮説をたてるために人生棒に振るってことかな」
と言ってさびしく笑うのだった。つまり夢を追うということは、また沢山のものを失うことなのだろう。
「君の夏はどうだった?」
「例の、自然教室、どうも今年はぱっとしなかったよ」
それは弘の児童館で、毎年夏休みに企画する子供のための自然教室だった。夏休みを飛び飛びだが、野鳥や植物や昆虫を観察する。今年はその教室の講師に自然観察協会から岸というナチュラリストを招いていた。
「どうもぼくの描いたイメージとはちがってしまったんだよ。昆虫を観察したり、植物を観察したりする姿勢というのが、ちがっていたんだね。なんだか学校のかたい理科学習の延長みたいになってね。例えば、木を観察するとき、木に登ってはだめ、枝を折ってはだめ、葉をむしり取ってはだめ、とだめだめづくしなんだ。ぼくは思うのだけど、木を知るということは、まず木に登ることからはじめるべきだと思うんだよ。その木にだきついて、その木と格闘して、そうしてはじめて木の存在というものを感じていくもんだと思うんだけどね」
「うん、そうだよ、その通りだよ」
「ところがその岸さんの指導方針というものは、例えばさ、五日市にいって川の生物観察をやったんだけど、水遊びをしてはいけないというんだ。その川には生物たちがたくさん生息しているから、それらの生き物の生活を破壊しないように、こっそりと静かに観察しろというのだね。大人にたいするならそんな指導もわかるけど、相手は子供たちなんだ。子供たちにむかって、水遊びをしてはいけないとか、泳いではいけないとか、石をぽちゃんぽちゃん投げこんではいけないとかいったてさ、だって子供たちの一番の楽しみは川で遊ぶことなんだ。泳いだり、飛びこんだり、もぐったり、魚をとったり、カニをつかまえたりさ。そんなことができないんだから子供たちはまったく不完全燃焼だったよ」
「そうだろうな。それは講師の選択を間違えたんだよ」
「うん。それは言えてる。しかし活動の途中でもういいですなんて言えないしさ。結局その先生のやり方で通す以外になかったけど。おかげでいろいろとふくらませていた夢がしぼんでしまった夏でもあったね」
「それじゃ海への挑戦もできなかったんだね」
「ぜんぜんだよ。せいぜい干潟で鳥の観察とか砂場でカニをつかまえるといった程度で終わってしまった」
「君の夢はなかなか攻撃的だからね」
「そうかな、攻撃的かな。しかしここはかつて海だったんだ。この地域の子供たちは、かつては海の子でもあったんだ。それがいまはまったく海と断絶したところで生きている。海がコンクリートでかためられて、ものすごい遠い存在になってしまった。次第に海はきれいになっているし、もうそろそろ海に子供たちの目をむけていくような活動が生れてもいいんだよ」
「今年、アラスカに一緒にでかけた仲間だけど、堀尾という男がいるんだ。彼のグループが埼玉にトンボの池というのを作ったらしいんだよ。まず地面を幅五メートル、縦二十メートルぐらい掘ってね。その深さは、まあ一メートル程度でいいらしいんだが、そこにたまった水が地面に逃げないようにビニールシートを張る。その上から石や砂利をいれて水をいれてほっておくんだ。その人工池のまわりにはもちろん草や木立を繁らせるわけだがね」
「二十メートルか」
「トンボというのは、言ってみれば水中動物でもあるからね。その大半を水のなかで過ごすわけだから、ヤゴが生きる環境というものを作りだしてやればいいわけだよ」
「それは成功したのかな」
「成功したらしい。彼の話によると、いまあちこちでそんなトンボの池が作られているようだよ」
「いいね。そんなものを作りたいね。この品川の地にも」
「大井埠頭だったらわけなくできると思うね。公園の一角に作ればいいんだから。あたりはまさにトンボがもどってくる環境だし」
「そうだね。それはできるね。いいな。その話のったよ。やろうよ、長さん」
と弘はちょっと興奮して言った。
自然の世界に目を開かれ、大井埠頭に目をむけるようになったのも長太の影響だった。都会から吐き出される巨大なゴミで埋め立てられた地に、見事なばかりの自然がもどっていたのだ。数百種類の草が繁茂し木立も根をつけていた。鳥が帰ってきた。さまざまな昆虫も生息していた。そこはいまや自然の宝庫となりつつある。そのことを知った弘は、夏休みになると自然観察の講座を組んで、子供たちをこの埠頭に連れ出すのだった
その広大な地に、緑道公園だとか、第三埠頭公園だとか、中央海浜公園だとかいった味もそっけもない名前がついていた。これでは少しも愛情がわいてこない。かえって殺伐としたイメージが広がるばかりだ。そこで弘は児童館にくる子供たちや長太の塾の子供たちと、もっと人の心をとらえるような名前をつけようという活動をしたことがあった。
それはあきらかに宮沢賢治の影響だった。イギリス海岸とか、ポラーノの広場とか、イーハトーボとか、種山ケ原とか、狼森とか、きらきらとした想像力とメルヘンにあふれた名前を賢治はつけた。弘は熱烈な賢治のファンであったのだ。
この日も弘たちが命名したその地名がでてきた。
「話はちがうけど、オランダ運河のウンドリ橋を渡って、左に五百メートルぐらいいったところに、いつも花がいけられていること知っていた?」
と長太が言った。
「いいや。最近ぼくはあのへんは通っていないんだ」
「それがちょっと不思議なんだね。ガードレールにペットボトルとか缶からとかが五、六個くくりつけられて、いつ通ってもそこに花が挿しこまれているんだよ」
「そこで、だれか交通事故で亡くなったんだろうな」
「そうだと思うけど。いつもそこを通るたびに花をみるんだ。この四か月ずうっとだよ」
「交通事故にあった子の母親が、毎日やってきて花を捧げているのかもしれないね」
「いやね、それがその花がチューリッブだとか、バラだとか、カーネーションだとか、なんだかいつもガキっぼい花なんだ。あれはぜったいに大人のしていることではないように思えるんだよ」
「ふうむ」
「そこにペンキでね、タカシ命って書いてあるんだ」
弘はぎょっとなってたずねた。
「そのタカシって、どういう字だった?」
「高いの高に、こころざしの志で、タカシって呼ぶだんだろうな」
弘は一瞬息をのんだ。弘の知っている高志もまた大井坤頭で命を落としている。パトカーの追跡をふりきろうと猛スピードで逃走中に、ガードレールに激突して、わずか十七の命を散らせてしまったのだ。長太の言うタカシとはあの高志なのだろうか。
君は素敵なレディになれる 2
その日、智子はいつものように四時になると仕事を切り上げ、シビックを駆って家にもどってきた。ランドセルが居間のソファーの上に投げ出されていたが、宏美の姿はなかった。そうだ、今日は塾のある日だった、と気づくのだった。
そこはなんだか奇妙な塾で、勉強よりも遊びや野外活動が大切だといって、大井埠頭で植物を観察したり、野烏公園にいって鳥のスケッチをしたり、日曜には郊外にでかけて蝶の採集をしたりする。智子がそんな塾にいれてみようと思い立ったのは、宏美が学校にいくのをぐずりはじめたあたりからだった。いまの宏美には勉強することよりも、もっとちがったものに興味をむけることが必要ではないかと思いはじめていたのだ。
宏美はその塾に入るとがぜん蝶の採集に熱中しはじめた。いまでは専門家なみの高価な補虫網などを買いそろえ、毎日のように採集してきた蝶を展子板にはりつける作業に没頭していた。
蝶を採集するという活動を通して、宏美の生物とか自然とかにたいする関心の向け方が広く深くなっていくのが手にとるようにわかる。動物や生物の番組があると必ずそこにチャンネルをまわして、智子にあれこれと解説をするが、それが次第に高度になっていくのだった。
夫の邦彦の実家は福島にあった。その家のすぐ近くを川が流れ、庭の背後には林がひろがっていた。だからさまざまな昆虫やら野鳥やら小動物が実家や庭にまぎれこんでくる。ときには蛇が天井にはりついているというところだった。今年の夏だった。三人で実家を訪ねたとき、ヤモリがするすると廊下をはって智子の目の前をよこぎった。智子は思わずぎゃっと叫んで飛び上がってしまった。するとそのとき宏美が飛んできて、そのヤモリを大事なものを抱きあげるようにすくいとると、かわいいかわいいと言って頬ずりするのだった。
それをみて負けたなと智子は思ったものだ。命あるものはすべて大切にしなければならないとか、小さな生物が生息できない自然はやがて人間も住めなくなっていくとか、自然を破壊してはいけないとか、そんな思想はすべて頭から入ってきたことだった。頭だけでつくられ、頭だけで理解されたものだった。自然の大切さや自然の豊かさを知っていくには、宏美のように生物や植物をその手の上にのせて愛撫することからはじまる、そんな当り前のことを痛感するのだ。宏美がヤモリを愛撫しているのをみただけでも、宏美をその塾に入れたのは間違いではなかったと思うのだった。
今晩は宏美の大好物である特製のハンバーグをつくってやろうとシンクに立つと、
「ただいま!」
玄関に明るい声がした。ぱっとひかりがともったような明るい声だった。朝のぐずぐずした態度が嘘のようだ。その声をきいて智子はほっとするのだった。
「ねえ、お母さん。二十二日の日曜日あいてる?」
「今月の?」
「そう。今月よ」
「あいているわよ。どうして?」
「また丹沢にいくのよ」
「あら、そうなの」
「お母さんってわりと人気あるのよ。長太もきてくれって」
「ほんとうにそう言ったの」
「そうよ。言ったよ。楽しくなるって、みんなが」
「お母さんがいくとかえって邪魔になるんじゃないのかな」
「そんなことないよ。たけし君なんて、お母さんがくるんだろうって訊くよ」
「ほんとに。お母さんももっと蝶のこと好きにならなければだめね」
「だめだめ。お母さんみたいな短気な人は」
「あら、お母さんって短気かしら」
「短気短気、たんきもそんきってことがあるでしょう」
なんだこいつ、その格言の意味を知っているのか。
智子は話したくないことだった。できればこんなことにふれたくないことだった。しかし今日もまたたしかめなければならないことだった。
「宏美ちゃん。おなかが痛いのどうだった?」
「大丈夫だったよ」
「学校にいくとなおっちゃうんだ」
「まあ、そうね」
「学校ってどうなの」
「どうなのって?」
「つまりどんなことがあったかってことよ、今日は」
「まあ、いろいろとあったわよ」
「宏美ちゃんにいつもたのむのだけど」
「もうわかっているわよ」
「わかっていないわよ。だから訊くのだけど、学校であったことはなんでも話して欲しいのよ。いやなこととか、くやしかったこととか」
「わかってるってば。お母さんにも言うし、長太にも言うことにしているのよ。そういう約束なんだ」
長太というのは宏美のいっている塾の先生のことだった。長太長太などと呼びすてにするものだから最初はびっくりしたが、どうやらそれは尊敬と親しみの表現だということがわかるのだった。
「どんな約束なの?」
「もし、だめだなあ、もうこれ以上がまんできないなあと思ったときは、必ず長太に言えって」
「ふうん」
「長太ったらね。君はきっと素敵なレディになれるって」
「なあにそれ」
「君のお母さんが素敵な人だから、きっと君も素敵なレディなれるぞって」
「なんなの、それ」
と智子はちょっと顔を染めて言った。
邦彦が八時過ぎにもどってきた。いま新しいプロジェクトの中心にいて、帰りがこのところ連日深夜だった、その日は珍しくはやかった。
「宏美はどうだった?」
と訊いてきた。それがいま夫婦が最初にかわす会話だった。
「今日はいったのよ。でもやっぱりすごく大変なの。毎朝、宏美と格闘することでぐったりとなって。気分を切り変えるのがたいへんなの」
「どうしてなのかな。まったく」
と邦彦はためいきまじりに言った。
「あなたがためいきなんてつかないでよ。こんなときこそあなたがしっかりしてくれてなくちゃあ」
「木村部長のところの二番目の子がやっぱりそうだったらしいんだ。なんでも五年生のときに突然学校にいかなくなったらしい。それがちょっと続いたらしいけど、受験塾の特訓教室にいれて中学受験に打ちこませたら、登校拒否も自然になおってしまったらしい。そういう方法もあるんだな」
「それも一つの方法かもしれないけど、宏美にはむいていないわ」
「昔からいじめというものはあったんだ。おれたちのときにもよくいじめられてたやつがいたよ。しかしそんな体験をくぐり抜けて子供たちは強くなっていく。だからあまり深刻に考えることもないんだろうがね」
「でも宏美の場合はよくわからないのね。ときどき仲間はずれにされることはあるらしいけど、だれか特定の子にいじめられているような様子もないのよ」
宏美ははっきりと自己を主張する子だった。たとえばホームルームで会議があったりすると、彼女だけがいつも孤立するらしい。しかもその意見をなかなかゆずらず最後まで押し通そうとする。担任は彼女のそんな個性を話すときいつも運動会の話をする。運動場に整列して、先生が右向け右と号令を下したとき、たった一人宏美だけが左をむくと言うのだった。
それはたまたまそういうこともあったということなのだが、担任がそのことをいつも一つの象微として語った。そして学校生活のいろんな場面で、宏美はそれに似たようなことをたびたび引き起こすと言う。担任はそんな宏美の性格を、どう表現していいかわからず、ユニークで個性的だと評するのだった。
智子も邦彦もそれぞれ自分を個性的な人間だと思っているが、しかし運動会で右向け右の号令がかかったとき、たった一人左を向くほど個性的ではない。邦彦がアメリカ支社に転勤になって、一家で二年ばかりニューヨークで暮らしたことがあった。もしかしたら宏美のそのユニークな個性は、その時つくられたのかもしれないと思ったりするのだが、しかしそのとき宏美はまだ四歳だった。
「部長も言ってたけど、いまではその登校拒否した子が一番がんばるそうだよ。なんでもねばりづよくやっていくそうだ。いじめというのが、まあ、その子の精神を鍛えたということなんだろうね。宏美もそうなってほしいものだ」
「そうね」
「いま甘やかせて、学校から脱落したら親も子も負けだな。とにかくどんなことをしても学校を休ませてはいけない。それは敗北なんだ」
宏美の登校拒否がはじまってから、どことなく疎遠になっていた夫婦の会話がまた昔のように密度の濃いものになったようだった。二人の結論は同じだった。とにかく学校にやること。宏美を学校のなかで生活できる強い子にすることだった。社会にでればもっと苛酷な争いが待っている。そんな社会に乗り出すために負けてはならないのだった。
智子はその夜、叔父からもちかけられた話を切り出そうかと思ったが、しかしそれは思いとどまった。邦彦はいまの勤務もこころよく思っていないのだ。彼の本心は世の多くの男たちのように、いや彼の同僚たちのように、妻は家にいなければならないと思っているのだった。妻が働いていることは彼の会社では恥ずかしいことであった。だから邦彦は会社では智子が働いているなどということを一言も漏らしていないはずだった。そんな邦彦に勤務する日をさらにふやしたいという話をもちだしたら争いになるだけだ。
智子はいま宏美の問題をかかえていた。さっぱり展望がなかった。どんな風にしていいかまったくわからなかった。今日はなるほど学校にいった。しかしそれも強引におどかすようにして学校に送りだした。宏美のためではなく自分のために。自分が会社にいくために。そんな卑劣なことをしているいまの状態では、とても叔父の話にはのれなかった。その話を本気で考えるには、まず宏美のことをきちんとしてからなのだ。
あなたが欲しい 3
その合宿は子供たちの生命の深いところにさまざまな波紋を投じた。例えば栗原千穂は大木が切り倒されるシーンを次のように書いている。
《‥‥チェンソーがうなりだした。私はもうどきどきしてすごくこわくなった。ぐえんぐえんとチェンソーが木にはいっていく。それは木がいたいいたいとさけんでいるようだった。どんどんはいって、いたいいたいと木がさけんでいる。それでもチェンソーがぐぐっと入る。わたしはこわくて目をつぶった。でもやっぱりちょっと目をあけててみていた。私は心のなかでさけんでいた。いたいいたいというさけび声がきこえてきて、私はやっぱりみていた。木がどどどっとたおれていった。わたしはせかいがこわれたように思った。わたしは声をあげてないていたら、先生がきた、私の手をにぎって、
「木はね、二度いきるんだよ」
といった。どうしてときいたら、木はたおされるかもしれないけれど、また材木となってぼくたちのところでいきるんだといわれ、だんだんかなしみが消えていきました‥‥》
その作文を書いた千穂はたった半年前に、一緒に生活していた祖母を失っている。おばあちゃんを失った悲しみが、打ち倒される木立に投影されていないわけはない。千穂はきっとその時の悲しみと重ね合わせているのだ。
嵐があった。都会の子供たちがはじめてみた自然の猛威だった。その場面を四年生の稔がいきいきと描いている。
《‥‥嵐だった。ぼくはあんな嵐をみたことがありませんでした。ものすごいものでした。雨がどぱどばどぱどばとたたきつけてきました。風がひゆんひゆんひゆんとうなりました。木の葉がぱたぱたと音をたてました。まっきいろににごった川がぐおんごおえんとながれます。そしてずどどどんとかみなりがおちてきた。ざうざうびゆいんびゆいんぱだぱだぱだぐおんごおんずどどどずどんずどどどずどん。ものすごい嵐の音楽だ。こんな音楽は人間にはぜったいにつくれないとおもった‥‥》
中学三年生の翔太の通信表は一と二が交互にならんでいた。学校の授業についていけないおちこぼれだった。高校に入れるかどうかのぎりぎりのところに立っている彼にとって、この夏は合宿どころではなかったのだ。しかし彼はしっかりとこの合宿に立ち向かって、素晴らしい作文をかいた。
《‥‥なにが一番感動したかって、ぼくはこの合宿で一番感動したのは、自分がすごく好きになったということに感動しました。ぼくはいつも自信がありませんでした。勉強もできないし、サッカーとかのスポーツだってだめだし、友だちもあんまりできないし、ぼくのぜんぶがだめだと思い、自分が好きではありませんでした。でもこの合宿でぼくはちがっていました。ぼくのはんはいつも一番か二番でした。食事づくりとか、ぼくのはうまいとみんながいいました。山にも一番はやく登ったし、キャンプファイヤーでのぼくのはんの踊りはさいこうでした。小学生たちが、翔太、翔太とたよりにしてくれました。ぼくはこんなに自分がすごい人間なんだということを発見したことが、最高の感動でした。丹沢の森はぼくに、自分を好きになれといってくれたのだといまは思います‥‥》
合宿は楽しいことばかりではなかった。つらいことも泣きたくなることもあった。いじめがあったし喧嘩もあった。美登里はこのあたりのことを書いている。
《‥‥近藤という中学生はわたしは一番いやでした。いつもえばってて、いつもわたしたちにあれやれこれやれって命令ばっかして。それで自分はあんまり動いていきません。わたしが一番いやだと思ったのは、わたしたちが食事づくりをしていたとき、その中学生がきてわたしたちのかまどをとってしまって、それでじぶんたちの食事づくりをしたことです。それとかわたしたちのテントにのぞきにくるとか、水遊びの時にわたしたちにわざと水をかけるとか、いっぱいいやなことがあって泣きたくなりました。でもその中学生の印象がかわったのは、みんなで山に登ったとき、私のぼうしが風でとぱされてずうっとがけのしたまでとんでいってしまって、私がもうなみだをうかべていたら、その中学生がそのあぶないがけを草とか木とかにつかまりながらどんどんおりていって、私のぼうしをとってきてくれたときです。わたしはその中学生にもいいところはあるんだなって感動しました‥‥》
長太はずうっと子供たちに作文を書かせてきたが、子供たちにとって作文を書くということは苦痛以外のなにものでもなかった。子供たちは作文を書くのが嫌いだった。数行書くともう鉛筆をもつ手の動きが止まってしまう。しかしなにかそこに劇的な体験があったとき、彼らの鉛筆がどんどん走っていくのだ。とりわけ夏の合宿のあとに書かせる作文がそうだった。その体験がいかに彼らの心に深く刻み込まれたかを語るように、どの子も合宿のことを書きはじめる。言葉が光り、文章がみずみずしく踊る。言葉から音楽がきこえてくるようだった。子供たちはなんなく十枚を突破していく。なかには二十、三十枚と書きついでいく子もいるのだ。
その合宿は子供たちにとって驚きの連続だったようだ。木や川や森を描くとき、荒れ狂う嵐の森を描くとき、鳥や昆虫を描くとき、木の伐採するシーンを描くとき、焚き火をつくるとき、みんなで食事をとるとき、その描写の力は本物の体験をしてきた子供たちだけに描ける深さと強さをもっているのだった。彼らの創造は一段と深くなり、その色彩もあざやかになっていく。子供たちが書いていく一枚―枚に生命力がただよっているのだ。
長太は子供たちのそんな創造をみていて、なぜ早くこういう授業を組み立てなかったのだろうかと思った。彼は早くから気づいていたのだ。子供たちのテストの成績をあげるという授業がいかに間違いであるかを。そういう教育の仕方がどんなに深い罪であるかを。それなのに彼はテストの成績をあげるという看板をかけて生きてきたのだった。子供たちにとって必要なことは、テストによい点をとることでも、通信表の成績を上げることでもなかった。
それはたとえば、シュタイナーがどこかで言っていることだが、早くから知識教育をうけてきた子供たちは未成熟のまま大人になると。そしてそういう人間は一見社会のなかで成功を遂げていくようにみえるが、その内側では崩壊もまた誰よりもはやく進行していくものだと。
そのシュタイナーの予言は、例えばボケという現象の研究のなかで証明されているらしい。受験勉強をはやくからさせられた人ほどボケ現象の頻度が高くなっていくという。しかしそういう事実をつきつけられなくとも、小学校の低学年から受験勉強に突入させられた子供たちの魂の底は、すでに荒廃の闇をただよわせていることを長太はしっかりとみていた。長太にはそのことが痛切にわかっていながら、それでも子供たちに勉強させるという塾稼業で生きてきたのだった。
小学生たちのクラスは目覚ましいばかりの成果を上げた。子供たちが没頭した物語づくりや、絵本づくりや、観察図鑑づくりや、観察ノートづくりはそれぞれ見事に完成していった。それぞれの作品がどれも本物の創造の響きをたたえていた。そればかりかこの最後の年、なんと一人も脱落する子供がいなかったのだ。こんなことはかつてなかったことだった。それほど充実と喜びにみちた一年間だった。長太が成そうとしていたことが塾をたたむ最後の年になって実現したのだ。
珈琲亭・白鯨(モビィディック) 4
幸子の父親正義は教師だったが、社会主義の思想をもった政治活動家でもあって、その活動で逮捕されると、学校からも追放された。そこで正義は一家を引き連れて満州という新天地に渡っていったのだ。開拓村のリーダーとなって、農作業だけではなくさまざまな活動に取り組んでいたが、開拓民の子供たちのために学校を建設したのも正義で、その学校の先生になったのが幸子だった。十八歳の先生だった。幸子はそんな経歴をもった女性だったから、何事も深く思考しながら生きていく女性だった。だから六カ所村に入植すると、同じ入植者たちの女性によびかけて婦人会をつくった。世界から切り離され、不作、病、貧困、借金というさまざまな負の連鎖に苦しむ開墾地の生活は、なによりも互いに助け合う共同体組織が必要だったのだ。
開墾が進み、田畑も広がり、貧困の村にもようやく光が見えてきたときに、突如として札束というモンスターがこの村に襲いかかった。むつ小川原六ヶ所村を日本の一大生産基地にするという国家プロジェクトが打ち出されたのだ。その広大な土地に自動車工場、製鉄工場、アルミ工場、石油精製工場と一大工業地帯をつくりだすというプランだった。この計画が浮上していくと、その土地を買い上げるために何十という不動産屋が、現金をぎっしりとつめこんだ段ボールを車に積み込んで襲撃してきたのだ。
年収の何百倍何千倍という現金に、貧困にあえぐ六ヶ所村の農民たちは目がくらみ舞い上がり、次々に土地を手放すと、近郊に御殿のような豪邸をたてて移住していった。しかし謙作と幸子はそんな狂乱にまったく揺るがなかった。それどころか彼らは国家に対して激しい怒りが噴き上げていた。謙作にはあのニューギニア戦線のことがよぎる。幸子には満州でのあの地獄の逃避行がよぎる。国家はまたしても私たちを投げ捨てるのかという怒りだった。今度こそ国家の暴力に屈するものかとそれまで通りの生活に徹していると、国家の方が崩れていった。その巨大プロジェクトが頓挫したのだ。
広大な原野となってしまったなか、謙作と幸子はその地にとどまった数軒の農家と共同でビニールハウス栽培に取り組んだ。これが彼らの農業を改革した。もはやヤマセや冷害に苦しむことはなかった。もう謙作は東京に出稼ぎにでる必要もなくなった。春、夏、秋、冬と四季のめぐりを大地のなかで過ごせる。ようやく謙作が目指していた人生が訪れたかのように思えた。しかしその幸福も一瞬にして奪われてしまった。幸子が畑の中で倒れていた。謙作が幸子を抱きかかえたときもう幸子の鼓動は止まっていた。動脈瘤破裂だった。
いったいこれはどういうことなのだ。いったいおれの人生とはなんであったのか。幸子はおれの分身そのものだった。彼女がかたわらに立っていたからこそおれの人生があったのだ。これからおれはどのように生きればいいのか。謙作は自身の内部が空っぽになってしまったように思えた。そんな彼にふたたび国家が襲撃してきた。頓挫した開発計画の広大な土地に、今度は大規模な核燃料の再処理工場の建設が立案され、それが本格的に始動したのだった。その建設予定地に居座る農民たちを、すべて追放せよという国家の強権発動もまた始動した。
幸子を失ったその空洞はいよいよ深く、疲労も蓄積していき、作業に立ち向かう意欲も減退していた謙作だったが、この報に接すると怒りの火がまた燃え立ってきた。この土地は幸子ともに開墾したのだ。この土地に幸子の魂が眠っているのだ。この土地をどうして国家に譲り渡せるものか。謙作は今度も国家と徹底的に戦うという決意をかためていた。ところが国家は霞が関の高級官僚となった息子を懐柔して、息子を通して立ち退きを迫ってきたのだ。
「この大プロジェクトで六ヶ所村は豊かな村になるんだ。全村民が豊かになるんだ。父さん一人の抵抗のためにどれほどこのプロジェクトが遅滞し損害をこうむるか。たのむからその小さなエゴイズムを捨ててくれ」
そしてさらにこう誘った。
「田園調布に土地を買っている。そこに家を建てる。おやじの部屋をつくるから、もうこの村をたたんで、東京にきてくれ。それを恭子も望んでいる」
その日、謙作は東北本線の乙供駅で降りると改札口に菅野が立っていた。すでに予約を入れているタクシーのドライバーだった。謙作は一年に二度、春と秋の彼岸の日にはその駅におりたち、菅野のタクシーを猿倉温泉に走らせるのだ。その温泉は幸子と何度も通った彼にとって特別の場所だった。しかし彼の目的はその道中にあった。タクシーがいくつもの峠をこえると、その前方に雄大な十和田山がその全貌をあらわす。
その風景に打たれた幸子が謙作に言った。「この景色を太郎と次郎に見せたかった」満州の地で失った二人の息子だった。さらに彼女はこう言った。「ここに太郎と次郎の道祖神を立てましょうよ」。
そこにいま三体の道祖神が立っている。太郎と、次郎と、そして幸子の。一番左に立つ石仏がにこりと笑った。幸子が彼に笑いかけたのだ。その笑顔に謙作の目は涙でくもる。そうだ、やるべき仕事があったと《写ルンです》をバッグから取り出して、シャッターを押した。
その喫茶店の前に立っているプラタナスの葉は、もうすべて葉を落としていた。寒風が吹き込んでくる階段を上がって珈琲亭のドアを押すと、香ばしいコーヒーのにおいが彼を包み込む。謙作はいつもの席にすわると、オーナーの孫娘がいつものようにやってきて、「クジラ絵本クラブ」からたのまれたんですけどと言って、彼に封書を手渡した。
《謙作さん。なんて見事な写真なんでしょう。クジラ絵本クラブはやっとわかりました! 謙作さんがなぜ一枚しか撮らないのか。謙作さんは目にするさまざまな景色のなかから、たった一枚、決定的なショットを選びとるのですね。謙作さんの撮ってきた写真をあらためてみるとき、その一枚一枚がどんなにすばらしい写真かがいまはじめてわかりました。謙作さんは魂を写すカメラマンだったのです! そのワンショットのなかにすべてを刻み込む魂の写真家だったのです! そんなこととはつゆ知らず、頭にくるとか、トサカにくるとか、頭を疑うとかいって、ごめんなさい。クジラ絵本クラブとしては、深く、深く、深く(ごっつん! テーブルにおでこがぶつかった音ですよ)頭をたれて反省しています。今度の取材先は謙作さんの息子さんの家です。もちろん一枚ですね。魂のワンショットです。ではよろしくお願いします。クジラ絵本クラブより》
息子の家は多摩川園駅から歩いて十分ほどの高台にあった。このあたりは豪邸が立ち並んでいる。その中に立つ息子の家はそれなりの気取った建物だったが、周囲の何十億という金をかけた豪邸から比べたら、なんだか哀れなばかりに背伸びしているといった家だった。謙作はその家に一年ほど住んだが、そこは自分の生きる場所ではないと立ち去ってからは、一度もその家を訪れることはなかった。
東大を出て、霞が関の高級官僚となった息子は、三十歳のとき恭子という名の女性と結婚した。恭子はグッチやテファニーで身を飾れることのできぬ人たちを見下し、さげすむような女性だった。婚約すると一度ならず二度三度と夫となる人の実家を訪れるものだが、彼女は一度も六か所村に姿を見せることはなかった。東京のホテルで行われた金ぴかの結婚式は、後味の悪いいやな結婚式だった。恭子と彼女の一族は、日本のチベットからきた水呑み百姓どん百姓あしらいだった。
二人の子供が生まれた。健治はその子供たちをつれて帰郷することがあったが、恭子は一度もその帰郷に連れそったことはない。幸子の葬儀のとき健治は、恭子をつれていく、恭子も焼香したいと言ってると伝えてきたとき、謙作は珍しく声を荒げて、母さんの葬儀が汚される、恭子を連れてくるなと息子を叱った。幸子は恭子がきらいだった。健治はなぜあんな女と結婚したのだといつも嘆いていたのだ。
その恭子が健治と連れだって六ヶ所村をはじめて訪れたのは、例の強制立ち退きをせまられていたときだった。彼女は言った。
「私たちはお父さまと一緒に暮らすおうちを建てますから、ぜひ東京に来て下さい。私たちはお父さまを大切にします」
二人の目的は、謙作が手にする巨額の補償金だった。恭子はその金を手にするためにやってきたのだ。
新築なった家に謙作は移住した。しかし彼はその日にうちに、ここは自分の住むところではないことに気づいた。二世帯住宅として建てられたのだが、謙作のテリトリーといったらワンルームマンションのようなものだった。そこで謙作は朝、昼、夜、自炊だった。孫二人はそれぞれ小学六年生と四年生になっていたが、彼らはときおり敵意むき出しの言葉を謙作に投げつけたりした。そういう子供たちの態度は、あきらかに恭子の意志を子供たちが代わって表現していることだった。その家族には謙作は、邪魔なもの、早く消え去ってほしい存在だった。だから半年足らずでその家から立ち去った。
多摩川園駅を出て五分ほど歩いたところに多摩川が流れている。その日、謙作はその多摩川の堤を歩いた。息子の家で暮らした一年、毎日その多摩川を散策したものだ。多摩川の堤をぶらぶらと歩いていく。どこまでも歩いていく。そのとき謙作は思い知った。自分は農民なのだ。農民は土地を失ったらもう終わりなのだと。どんなに貧しい土地であっても、どんなに不作に苦しめられても、土地を失ってはならないのだと。
謙作は多摩川の堤から、悠然とながれる多摩川を《写ルンです》におさめた。
十二月に入った。厳しい寒気団が東京を襲っていた。謙作は首にマフラーをまいていた。幸子が編んでくれたマフラーだった。もうくたくたになって色あせているそのマフラーは暖かい。彼のお気に入りのマフラーだった。この日の謙作にはどこなく生気がなかった。なんだかつらそうに階段を一段一段上がって珈琲亭のドアを押した。香り高きコーヒーの匂いが彼を励ましたのか少し元気をとり戻すと、オーナーの孫娘から手渡された手紙に目を落とした。
《謙作さん、とうとうというか、やっとというか、最後の仕事になりました。現在住んでいるアパートの写真を撮ってきて下さい。これまで謙作さんに、あっちにいってくれこっちにいってくれと無理なお願いばかりしてきてきました。さぞご迷惑なことだったでしょう。《クジラ絵本クラブ》としては、飛行機はビジネスクラス、電車はグリーン車、そして最高級のホテルとかに泊まってもらって、のんびりとゆったりとした旅をしてもらいたかったのですが、少しの取材費しか出せずに申し訳ない気持ちでいっぱいです。最後の写ルンです。このカメラって、ほんとうに変な名前ですよね。ではよろしくお願いします。クジラ絵本クラブより》
めぐり合う時間
「あなたのお勧めの映画《めぐり合う時間》、見たわよ」
「どうだった?」
「すごくいい映画、こんないい映画に出会えて、あなたにありがとうっていいたいわ」
「わあっ、それって最高の賛辞ね」
「深い余韻を残す、よく練り上げられた映画よね、これこそ本物だっていう映画。構成がしゃれているわよね。三人の女性の人生を花で繋いでいくなんて」
「人生だけじゃなくて、三つの時代、三つの場所も繋いでいくわけよね、まず一九二十年代のロンドン郊外のリッチモンド」
「バージニア・ウルフを、二コール・キッドマンが鼻を高くして演じて、アカデミー賞をもらった」
「それから一九五十年代のロサンジェルス。ローラ・ブラウンをジュリアン・ムーアが。一見、平凡な主婦だけど、複雑な影をもっていて、子供も夫も捨てしまうのよね」
「その子供が成人して詩人になっている。しかしエイズにかかっていて、生の光にたえられずに、クラリッサの目の前で、ビルから身を投じてしまう」
「その息子の葬式のとき、ローラは再び登場するのよね、クラリッサのアパートにあらわれる」
「そこで彼女は告白する、なぜ子供や夫を捨ててしまったのかを」
「あのとき、私は死ではなく、生を選んだのだって。この映画はさまざまな生の光を描いているけど、同時に死を描いているのよね。さまざまな死を織り込んで縫いあげられている」
「そのクラリッサをメリー・ストリーブが演じている。時代は現代で、場所はニューヨーク。彼女は編集者で、娘のジュリアと、それに彼女の愛人サリーと住んでいる」
「彼女は同性愛者でもあるのよね。バージニア・ウルフもそうだったらしいわね。ああいう関係ってよくわかるわ。意外なことにあなたと私もそんな関係になったりしてね」
「ちょっと、それはないんじゃない」
「大丈夫よ。あたしはスティーブ・ディレンにしびれたのよ。バージニア・ウルフの旦那さん。ああいう人とめぐり会いたいな」
「あの映画のわき役ってすごい人ばかりだけど、彼も素敵よね」
「あなたは気に入ったシーンは、暗記するっていったけど、私もあのブラットホームのシーンは、全部そらんじたわよ、オブリゲーションって叫ぶの、ウルフが。ねえ、ここでやってみない」
「いいわよ、それで、あなたはどちらになるの? 私はスティーブの役?」
「そう、私に二コール役をやらせて。オブリゲーションっていってみたいのよ」
「いいわよ、それじゃ私からね、家を飛び出して、ロンドンへ戻ろうとするウルフを引き留めにやってくる。あの女中さんの名前、なんっていったっけ?」
「ネリー」
「わかったわ、ネリーね。じゃあ、スタート。ヴァージニア、ネリーがぼくたちの夕食を作って待っているんだぞ。君はネリーの作った夕食を食べる義務があるんだ」
「義務、義務ですって、そんな義務なんてないのよ、そんな義務なんて存在しないのよ」
「君は君の心を取り戻す義務があるんだ」
「いいわ、そういうことにするわ。それで、レナード、あなたは役目なんなの。私の夫、それとも刑務所の看守?」
「君は病んでいるんだ。だからぼくたちはこのリツチモンドにきたんだろう。この静かなゆったりと流れる生活の中で、君は健康な心と体を取り戻していくんだ」
「静かなゆったりと流れる生活ですって、これは監禁なのよ、あなたは私に監禁しているの」
「監禁だって」
「そうよ、監禁なんだわ。私はこの監禁にたえてきた。この投獄にたえてきたのよ。私は医者たちの治療を受けて、おとなしく、薬を飲んでたえてきた。自分ことは誰よりも一番よくわかっているわ」
「君はわかっていない。君はまだ自分の本当の声を取り戻していない」
「私はわかっているのよ、自分のことぐらい」
「いや、わかっていない。君は病んでいる。君は深く病んでいる。君には病んだ歴史がある。ひきつけ、発作、失神、かんしゃく、苛立ち、幻聴、幻覚。ぼくたちがこの静かなリッチモンドにやってきたのは、死の淵から避けるためだった。君は二度も自殺しようとしたのだぞ」
「私はロンドンが恋しいの、ロンドンにいかなければならないの。ロンドンで私は自分を取り戻すことができるの」
「君はいまでも危険だ。君は今でも死の淵を歩いている」
「私にロンドンにいかねばならないの。これは私の権利よ。これはあらゆる人間の権利だわ。私は郊外の息のつまる麻痺ではなく、都会の激しい覚醒を選ぶは、それが私の選択なの。最悪の状態の患者だって、そうよ、まさに最低の状態の患者でも、自分自身の処方箋について彼らの主張はみとめられるものよ、レナード、私がこの静寂のなかでも幸せになれたらと思うわ。でもリッチモンドか、死のどちらかを選ぶなら、私は死を選ぶ」
大作のスケッチ
須藤啓司は東京大学に通っていた。東大生ともなれば家庭教師の口なんて掃いて捨てるほどある。家庭教師稼業で生計が立ち、十分に快適な学生生活がおくれるのに、どうして新聞配達などしているのか、東大生が新聞配達してるなんて聞いたことがないと半ば嘲笑されたりしたが、そんなときも彼は断固として、これがぼくの生きるスタイルなんだ、毎朝、日が昇る前に起きて一軒一軒に新聞を配って回る、その一歩一歩によって自分が確立されていく。安直な家庭教師で生計をたてるなんて、自己を滅ぼしていくだけだといった。彼もまた石と同じように中学生のときから新聞配達をはじめているから、新聞配達には筋金入りというところだった。
須藤が新聞配達をはじめたのは中三のときからだった。三年生になるとだれもが受験受験と大騒ぎするが、彼はそんな騒ぎに背を向けて新聞配達をはじめている。なにやらそこにただならぬ事情といったものがあったとだれにも思わせるが、事実そのとき彼は一つの精神的事件に見舞われたのだ。母から捨てられたのだから。
彼は東京生まれだが、保育園に通っているときに父が家を出て、母子家庭になった。なにもかも問題は彼の母にあったことが、須藤には幼いなりにわかっていた。彼女はなるほどちょっとした才能を持っていた。だから流行作家になりたという野望をもって生きていた。何やら虹をつかむように生きているような人間は、結婚はともかく子供などつくらない方がいいのだ。というよりは子供を産む資格などないのだ。しかし小説など全く読まない車のセールスマンと恋に落ち、妊娠して、それで結婚した。その結婚生活が六年間続いたのは車のセールスマン、つまり彼の父親がよく耐えることのできた包容力をもった人間だったからだと、須藤はそのときもまたいまでもそう振り返るのだ。二人が破局にいたったとき、彼は父親のほうについていきたかったほどだった。父もまたそう望んでいた。
車のセールスマンと別れた二年後に、今度は建築会社の営業マンと恋愛に落ち、またもや妊娠して、結婚するというパターンだった。その年に彼の妹が生まれた。しかしその家庭は三年も続かなかった。営業マンとの生活が破局を迎えると、母は二人の子供を引き連れて高知の実家にもどってきた。地方公務員の職を律儀につとめる祖父の家庭は、なにか崩れたような生活を引きずる母と違って堅実で健全だった。祖父母との平穏な生活がしばらく続いたが、彼が中学三年生になったとき、この母は再び東京に旅立つのだ。二人の子供を捨てて。実家に残してとか、祖父母に預けてとではなく、決然として二人の子供を捨てて。彼女が東京に旅立つ前日、母は彼にそう告げたのだ。
「母は、母の人生を歩いていく。母の才能を東京は必要としている。社会が母の文学を認めるようになってきた。ようやく時代が母の文学に追いついてきたというわけね。母は東京にいかなければならない。今度こそあの東京で、人生をかけて激しく戦わなければならない。この戦いにあなたたちを巻き込みたくない、というか、はっきりいってあなたたちは母の文学には邪魔なの。だからあなたたちをここできっぱりと捨てることにした。だからあなたも、もう母をあてにすることなく、あなたはあなたの人生をつくりなさい」と。
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