なろう系における「奴隷美少女」を求める、精神弱者男性の心理について
いわゆる「なろう系」作品と言えば、奴隷がいる世界で、奴隷を手に入れることから物語が始まる展開がもはやテンプレ化している。なぜ読者は奴隷美少女を手に入れたいテンプレ展開を、水戸黄門の印籠のようにして、ゆるぎない作品の安定感として無意識に求めてしまうのか。それを心理・精神の面から解説したいと思う。
なぜなら筆者もまた、令和日本では不可能ながらも、大金を叩いても奴隷美少女との生活をして筆者がteachingfeelingされたいだけの人生を欲する精神弱者男性だからである。
極楽浄土、転生、来世に期待、天国など、現世での人生を半ば諦める文脈において登場する、なろう系における『奴隷』の存在は大きいように思う。
※『奴隷』とは、傷がついている場合もあるがほぼ必ず美少女で、多くは絶対服従の首輪や紋章が刻まれており、本人の能力はともかく、社会的弱者として描かれている(ように思う)。
『奴隷』とは、ある意味で、読者の理想化した投影存在である
幼少期の心的外傷(トラウマ)、例えばいじめの体験や両親の不仲をはじめとして、ある程度長期にわたる人間関係における逃れられないストレスを受け続けた者は、それを元に人間社会全般の価値観や信念を構築してしまう。
同じ事実の認識においても、幼少期に脳に刻まれた内面世界の構築によって、人ごとにその事実の価値判断や受ける感情は異なる。
端的に言うと、戦争から帰還したばかりの者と、潔癖なほど表向き平和な日本社会で、列車の音や飛行機の音に対して感じる感じ方は全く異なる。
前者は全身緊張状態で体中が戦闘態勢に入るため交感神経優位となりアドレナリン放出され心拍数は急上昇し発汗して俊敏に身構えるだろう。後者であれば、それが事故やテロや災害でないと短期的には判断するように経験を積んできているので、いちいち大げさにビビらず交感神経の昂りまでは起こらず目の前のスマホに夢中になれるだけの精神的余裕があるだろう。
同様にして、同じ人間関係上のトラブルや、業務上やプライベートでのトラブルに対しても、個々人の精神的基盤がいかに形成されたかによって、正解は多様であるものの、異なった解釈が生まれ、その解釈があまりにも「生きにくい」もしくは「(標準偏差から)ズレている」ものである場合には、精神に支障をきたし、心理的に病んでいる物事のとらえ方を修正できないまま、生きにくい、鬱苦しい国で生きていると錯覚してしまうのである。
「生きにくさ」に対して、個人が問題なのか、社会が問題なのかはもちろん両方であって、片方だけに責任があるということもないが、生きにくいとすれば、それは生きやすいとか鬱苦しくないと思っている人間も一定数いるのだから、社会は一旦置いておいて、個人の心理学的問題についても考慮する必要があるのは当然のように思う。
そして、奴隷美少女とは、まさに精神的には強制収容所のような環境で発育していき、そのまま成人してしまったサバイバーである読者を、性別反転して理想化して愛せるようにした存在であるように思う。
弱者男性は、自分を愛せない
自分を愛さなきゃ他人(ヒト)も愛せないのは、ある意味定理であるはずだが、過去の対人関係(家族、友達、学校、塾、大学etc)において自尊感情をはく奪されるような扱いを受けて、それを是正する力やチャンスがなかった場合に、自尊感情というものがもう擦り切れてほぼ残っていないという場合がある。もう限界!俺ちゃんという訳である。
現実は健常者から見れば何も怖くないのに、過去に蓄積した感情的記憶によって、事実が苦しいのではなく、過去の経験した感情がフラッシュバックしてきて、戦争帰還兵のように常に日常生活において無駄な緊張を強いられる。その結果、疲れ果ててしまって、悪循環を繰り返す。社会生活において、うまく振る舞えないとまた非難され、自尊感情はすり減っていく。
表面上や表向きでいくら自分が立派・すごいと主張しても、全て自分の無意識の感情と異なる言動は自分の無意識によって検閲を受ける。意識と無意識の乖離が進めば進むほど、ますます神経症的に病んでいき、社会生活で受けるストレスは大きくなる。健常者でも生きるのは辛いのだから、無駄に余計に疲れているのである。
生きるのが辛いのは、イキルからである。
……しかしながら、自分を愛するためには、幼少期に適切な愛着を受けている必要がある。
不安定な愛着、いわゆる愛着障害
結局、母子関係における、まず世界から愛を与えられて、その後で世界を安全なものとみなすという、精神的基底における安定感形成がうまくいっていないから全ての問題が生じるのである。
愛が提供されない不安定な状態であれば、愛を提供してくれるまで過剰に愛を要求する。愛が提供されるか否かわからない世界においては、相手の一挙手一投足に応じて自分の愛が満たされるかどうかが決定する、つまり自分は相手に精神的に隷属する主従関係となる。
愛が手に入らない憎しみのパワーで、人類は戦争やテロや革命を起こしているのであって、愛の充足なくしては人間は愛を与えられないし、そのために宗教ではまず無条件の愛を感じ取った経験が重要視されるぐらいである。
成人するまで手に入らなかった愛への執着というものが、精神弱者における生きにくさの根源であり、それゆえに、自分を愛せない言動を取ってしまう根源でもある。自分と世界はつながっていないという感覚は、自分を、自分自身からも社会からも劣った存在として認識してしまう。
まさに気分は奴隷である。愛着対象とする他人の一挙手一投足に気を取られないといけないほど、精神的に不安定であるということだから。
親になれば、常に自分の気持ちと子供や妻の気持ちが一致していないと気が済まないような自他の感情的分離ができない大人となる。
だんだんと話は確信に迫る。結局は以下の通りである。
自分が親の神経症的傾向を改善するために、自我を殺して自尊感情をすり減らして精神的犠牲になったのだから、今度は自分が親(支配者)になって、自我を殺して自尊感情をすり減らして自分を裏切れない愛と服従を与え続けてくれる美少女奴隷が欲しい
もっと単純に考えている者が9割9分かもしれないが、無意識の領域や心理学的に探っていくと終着点はここら辺のような気がしている。
つまり自分と精神的には同じ目にあってくれるが、自分よりも圧倒的に美しく(コンプレックスの反転)、かつ能力も高い場合が多い(コンプレックス含む場合も)美少女(自分を理想化した人物)から絶対的に愛される(奴隷として奉仕される)ことによって、自分自身をも愛することになる。
自分(なんでもいうこと聞かせることで、自分と失われた安全な世界との一体化を図る)→奴隷美少女(自分より完璧な存在への投射)→自分(完璧な存在から無限の愛を受け取る、以下ループ)
自分と自分の無限ループの中で、自分を愛することができるのである。結局は自分と自分との対話なのだが、奴隷美少女を媒介としている。
媒介を求めるのは、そのままでは自分を愛せないからである。
もちろん、それがあろうと、失われた膨大な愛着の前には微々たるものであろう。
しかし、その幻を求めて今日もなろう系作品で奴隷美少女を摂取して、明日の仕事に向かう活力を養っているのだろう。
令和日本では決して手に入らないがゆえに発達したフィクションは、今後も失われた時の隙間を補完し続けてくれるのかも、しれない。
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