【短編】パンとビール(3/3)
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ごとっ。私は今だとばかりに机の下部を膝で蹴り上げた。思いの外、大きな音がした。綾子は椅子から飛び上らんばかりに驚いた。
「何に、もう! びっくりするじゃない」
「ごめん、そんなに効くとは思わなかった」
「もう、余計なことしなくていいから、早く続きを聞かせてよ」
「ごめん、ごめん。それでね、男は『イヤ違うんです、財布を出そうとしただけなんです』と懸命に否定したらしいんだ……」
しかし男は包丁を握ったままだったから、泰子と母親は恐怖に顔が引きつったままだった。だが父親はことさら落ち着いた口調で「見せてみな」と若者に手を伸ばした。若者はおずおずと包丁を差し出す。父親はそれをじっくり見て「よく手入れがされている。躾が行き届いた、いい店だったようだな。どうだ事情を話してみないか」と促した。若者は訥々と話し出した。
それによると若者は小料理店で働いていた。住み込みで板前の修業中だった。しかし不景気で店が潰れ、途端に路頭に迷うことになった。職を探したが、なかなか見つからない。雀の涙ほどの退職金も底をつきかけたので、諦めて田舎に帰ろうとこの店に入ったとのことだった。「とても美味しかったです。僕にとってこの街での最後の晩餐でした」と言葉を詰まらせた。
父親は泰子達の不安をよそに、「どうだ、ウチで働いてみる気はあるかい」と若者を誘った。「住み込みで構わないよ」とも。若者は「本当ですか。ありがとうございます」と涙を流しながら、父親の手を取って何度も頭を下げた。
若者は真面目で努力家だった。直ぐに仕事を覚え、間もなく父親の右腕になった。父親の目に狂いはなかったわけだ。その後、泰子は若者と結婚し両親の店を継いだ。子宝には恵まれなかったけど、夫婦手を取り合って店を守り続けてきたそうだ。
「……ちょっと前置きが長くなったけど、本題はここからだ。でね、ご主人が、今わの際に『お前に謝らなくちゃならない事がある。あの夜、本当は強盗するつもりで店に入ったんだ』と打ち明けたそうだ。『切羽詰まってやけくそだったから、親父さんまで騒いでいたら、どうなっていたか分からなかった』って……」
綾子は顔を強|《こわ》ばらせている。
「こんなこと、実際にあると思う?」
「さあ、どうかしら。でも事実は小説よりも奇なりとも言うしね」
「でね、どう思ったのか聞いてみたんだ。そしたら、『多分本当でしょう』って言うんだ」
私は、綾子が息を詰めたのを見て、頬が緩むのを堪えながら、
「何であれ強引に私の心を盗ったことに違いはないんだからってさ」
「もう、何によ、それ。真面目に聞いて損した」
むくれる綾子に、私は腹を抱えた。
よかった。どうやら明るさが戻った。私は笑いの波が引いたところで、「でも馴れ初めは本当のことらしいよ。ところで朝の話の続きだけど……」と切り出した。
「えっ、何だっけ?」
「パンをビールに浸して食べるって話」
「ああ、それ」
「いやね。ちょっとインターネットで調べてみたんだけど……」
某ビールメーカーのホームページから得た情報を掻い摘まんで披露しようとする前に、綾子が遮った。
「えっ、そんなこと、ずっと考えていたの? 思いつきで言っただけなのに」
「どうでもいい話だったのかい?」
「そうじゃないけど、少なくとも真面目に問題提起したわけでもないわ。でもね、私、健介のそういうところが好きよ。つまらない話でも、興味が湧かないことにでも、嫌な顔一つせずに真摯に付き合ってくれる。うんうんって頷きながら聞いてくれる。ラーメン屋の女将さんも、そんな健介だから、深い話をしてくれたんじゃない」
「そうかな」
「ねえ、そのお店、いつ閉めちゃうの? その前に、そこのラーメン、食べてみたいわ」
「いや、まだしばらくは続けてくれることになったよ」
「そう、よかった。そうだ、健介、何だったらそのラーメン屋を継いだらどう?」
「えっ」
どきっとしたが、綾子はいつものように思いつきで言っているだけのようだ。
「健介は、何でも屋よりそっちの方が絶対合っているように思うけどなあ」
「そうかなあ。あれはあれでやり甲斐はあるよ」
「ううん、やはりその方がいいわ。そこでしばらく修行させてもらってさ。一人前になったらその店舗を借りて営業すればいいじゃない。それでお金を貯めて将来的に自分の店を持てたら最高じゃない」
綾子はやたらと私をけしかける。何かしら勘づいているようだが、私はあくまでも素知らぬ振りを続ける。
「そうだな。そうしたらその時はラーメン屋らしからぬ店構えにしたいね。『田ノ宮』みたいな」
「いいわね。女将さんともじっくり話をしてみたいわ」
「うん。近いうち一緒に行こう」
「約束よ」
「分かった。では映画に行くとしますか」
「ごめん。自分から言い出したのに何だけど、止めとくわ。何だか眠くなってきた」
やるせない思いで暗い海を漂っていた綾子が、やっと私の待つ岸へ戻ってくれた。私はそれだけでいい。
「うん。別に構わないよ」
「ねえ、さっきの話、ラーメン屋は絶対健介に合うと思うよ。じゃあ頑張ってね」
今度こそ、お休み。綾子は大きく伸びをしながら、部屋を出て行った。
――うーん、やっぱり気づかれたみたいだな。
先程は咄嗟にうまく隠せたと思ったのだが、どうも確りと本の表紙を見られていたらしい。その上で綾子は『調理師 過去問題集』とその後の話とを結びつけたのか、それともただただ野生的な勘なのか分からない。だが何となく私の決心を察したようだ。それでいて、そんなことはおくびにも出さず、さりげなく私の背中を押してくれる心遣いが嬉しい。
ただこれで、いきなり種明かしをして綾子を驚かすという私の目論見は外れたわけだが、それでもその暁には、彼女は何も知らなかったように自然に驚いてくれるはずだ。自然に驚くというのはおかしな表現だが、彼女はきっとそうしてくれるに違いない。
そして、「ねっ、私、確かあの時そう言ったよね。凄くない?」と自画自賛することも忘れずに。