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『銀河鉄道の夜』考察
皆さんは『銀河鉄道の夜』をご存知だろうか。
きっと1度は教科書や、本で読んだことがあるだろう。私も小学生低学年の頃、初めて読んだ宮沢賢治作品は銀河鉄道の夜だった。
このnoteでは、『銀河鉄道の夜』の、主に第7章「北十字とプリシオン海岸」を考察していこうと思う。
あらすじ
この章の大まかなあらすじは以下の通りである。
銀河鉄道に乗ったジョバンニとカムパネルラは窓からとある後光の刺す島を見る。そこでは、乗客が皆、その島の北十字に向かって祈っていた。そのまま進んでいくと、白鳥停車場に停車した。2人は一旦降り、プリシオン海岸に到着する。そこには大学士のような人がいて────という感じだ。
明らかに、一つの章に詰め込む内容では無い。前半の祈りを捧げるパートで頑張れば一章分書くことが出来そうであり、さらに後半に出てきた大学士は、銀河鉄道に乗ってから初めて話した人間だ。もっと容量を割いても良かったと思う。
それでも、宮沢賢治は全てをまとめて第7章としたのだ。きっとそれには意味があると思った。
初読の感想と今の感想
私が小学校低学年のときに初めて読んで、持った感想は、大学士がものすごく怖い、というものだった。
この章を読んでいる間、ずっと大学士が怖いと思い続けていた。最後に2人が「もう時間なので」と言って大学士の元から離れた時は、どれほど安心したことか。
ちなみに、その恐怖感情は今の私の中にもあって、久しぶりに読んだ時には「あ、この大学士、たしかめっちゃ怖い人だったやつだ」と思い、少し緊張しながら読んだ。
しかし、実際に読み終わってみると全く違う印象を受けた。
あれ……大学士、優しくない?いい人じゃない?
なんと、初読の感想と全く反対のことを思ったのだ。人は10年ほど経つとこんなにも思考が変わるのか。いや、そうそう変わらないはずだ。
特に私は小学生、もっと言うと幼稚園生の時に持ったポリシーなどは絶対に曲げない性格だ。つまり考え方に関してとても頑固者なのだ。そんな私が、1度持った深い恐怖心を覆し、プラスの方向に持っていくことが出来るだろうか。
では、なぜこんなにも大学士の評価が変わったのか。以降は、その理由を2つ上げつつ、銀河鉄道の夜を読み解いていこうと思う。
考察
1,子どもへの態度、大人への態度
理由の一つ目として考えたのは、大学士の態度だ。
まず、この大学士の性格を会話文から分析すると、仕事熱心で慎重、子ども好きなのではないかと思った。
仕事熱心なのは文章を読めば何となくわかるだろう。テキパキと指示出しをし、だるそうに仕事をしている様子はない。慎重なのは化石(?)を掘る仕事柄なのかもしれないが、ツルハシはやめろだとか、鑿で掘れだとか、細かい指示を飛ばしている様子が伺える。
きっと小学生の私は大学士の性格をここまでしか理解できなかったのだろう。たしかに、ここまでの性格だとジョバンニたちへの説明が何となく雑で、厳しい感じになってあまり優しい大人とは思えない。
しかし、冷静に考えて欲しい。普通、仕事中に突然やってきた子どもに、仕事内容の説明をするか?と。私だったらしない。危ないから離れていなさいとか言って遠くへ追いやっただろう。なぜなら面倒臭いから。「これは何?あれは何?」と質問された時、仕事をしながらそんな質問にも答えるなんて無理難題だ。
それでも、大学士は2人に説明をした。2人に対して話している時、私の中の大学士は嬉しそうに話すのだ。もうこれは大学士子ども好き説は立証できたのではないか。
ここまで考えたところでふと思った。
このくらいで大学士というキャラクターをトラウマに感じるか?と。
このままだとただの子ども嫌いで仕事熱心なおじさんで終わっているはずだ。そこで、もう一度考え直し、一つ思いついたのだ。
小学生の私は、大人への態度と子どもへの態度の差が怖かったのではないか?
と。
小学生が触れ合う、仕事をする大人というのは、大体両親か学校の先生くらいだろう。そして彼らはみんな私たちを「子ども」として認識し、接する。子どもだから優しくわかりやすい丁寧な言葉で話すし、難しいことは要求しない。そして、子どもは優しい大人の側面しかほとんど見る機会が無いのだ。
では、銀河鉄道の夜の大学士はどうだろう。ジョバンニとカムパネルラに仕事の説明をする!となり、2人の子どもに、言葉を噛み砕き、優しく分かりやすいように伝える努力をしてくれている。(全然わかりやすくは無いが。)
しかし、彼と一緒に働いている大人に対しては、厳しい言葉を言い、やろうとすることを否定している。文章からも伝わるピリピリとした雰囲気。さっきまで子どもに見せていた雰囲気と全く異なる様子。まるで別人みたいだ。
そんな、大人の持つ二面性のようなものが小学生の私にはとても怖く感じたのだ。成長し、大人の立場になった今だからこそ、理解出来た感情だった。
宮沢賢治はこの二面性を読者に伝えたかったのではないだろうか。
2,現実と夢
銀河鉄道の夜全編に通して言えることだが、この物語は現実と夢を混ぜ合わせて構成されている。
1番大きな括りは、まず、学校や活版所などのジョバンニが暮らしている日常である「現実」。次に銀河鉄道に乗り、カムパネルラと一緒に空を旅する「夢」。最後にもう一度「現実」に戻ってくるという
現実→夢→現実
を繰り返す構成で作られている。
では、第7章に注目して構成を見ていく。
まずは、2人がお母さんについて話す場面。これは「現実」だろう。突然出てくるお母さんの話、だいぶゾッとするものがある。銀河鉄道に乗ってからは、ずっと夢の中にいたのに、急に現実に引き戻される感覚。怖い。
次に、乗客達が島に向かって祈る場面。これは「夢」だ。この描写はかなりファンタジックで子供心がくすぐられるのだが、わかる人はいるだろうか。とにかく描写が美しい。私の目の前にも同じ光景が広がっているような、そんな気がする。大学士に出会う前までは夢が続いているはずだ。
大学士に出会って会話をする場面は「現実」だ。この場面を夢だとしてもいいのだが、夢と言うには現実味が強いのだ。先程言った、大人の二面性に関しても、そもそも仕事をするということ自体、夢だったらありえない。仕事というのは現実の象徴とも言えると思う。
最後に大学士と別れたあと、2人が列車に向かって走る場面。これは圧倒的に「夢」だろう。「そしてほんとうに、風のように走れたのです」と書いてあるためだ。
ここまでを踏まえると第7章は
現実→夢→現実→夢
となっている。
ここに、小学生の頃の私が恐怖したもう1つの理由があると思う。
それは、夢と現実との緩急だ。
この物語、夢を描くシーンは本当にキラキラしていて「こんなところ、本当にあったらいいな。行ってみたいな」と思うくらい素敵な描写が続く。しかし、現実に戻ると一転、妙に生々しい描写が続き、「さっきまでの夢は!?あれ!?」となる。ずっとニコニコしている人が急に無表情になる時みたいな気味の悪さを感じる。夢から現実に引き戻される恐怖心、おそらくそれがそのまま大学士への恐怖として繋がったのだと思った。
宮沢賢治の構成力、まことにあっぱれである。
最後に
私は今回、ほぼ10年ぶりに銀河鉄道の夜の夜を読んで一気にキャラクターへの評価が変わった。第7章以外にも、宮沢賢治が伝えたかったことは散りばめられていると思われる。宮沢賢治ワールドを深く知るにはまだまだ時間がかかりそうだ。
ここまで読んでいただいた皆さん、久しぶりに『銀河鉄道の夜』を読んでみたら、なにか新しい発見があるかもしれない。