いるよっていう証拠
仕事も、家事も、育児も、勉強も、遊びも...
人の生活そのものが「はたらく」ことだと思っています。
(思いたい、というのが本音かもしれないけれど。)
人間は考える葦であるんだっけか
お風呂も歯磨きもできずベットでうずくまっていた時期がありました。
あの頃の私は「はたらいて」いなくって。
でも、生きていたから心臓は「動いて」いて、考え事は止められなくて頭は「動いて」いたことは確かです。
人は人と居て人になる
ひとりぼっちでうずくまっていたので、頭が動いて考えていたことを口に出すこともありませんでした。
誰とも会わず、喋らず、自分がただ「動いて」いるだけの時間でした。
人間は1人で生きられないってよく言いますよね。
これは、私がいるっていうことを、誰かに存在を知ってもらわない限り、私はいないってことだと捉えています。
これと同様に、考えていることを外に(他人に)出さない限り、考えていないってことになるなと気がつきました。悲しいことに。
会えて、話せて、ほっとする
帰省をして、家族にぽつりぽつりと自分の現状を話せるようになった時、こんなような言葉をもらった記憶があります。
他人である家族と共に暮らして、自分の考えをしゃべることで、ひとりぼっちだった私が、今そこにいる私として再び戻ってきたのかもしれません。
ひとりでは人になれないんだなあと、しみじみ感じた時期でした。
「はた」を「らく」にすることだよ
おばあちゃんが言ってました。
小学生の時に亡くなってしまったから、10年以上も経っているのに、とても覚えています。
「はた」は自分以外の誰かであって、自分の力で自分以外の誰かを「らく」にしてあげるんだよって、口を酸っぱくして教えられました。
ただ、やっぱりここでも、自分じゃない誰かが出てきてしまうんですよね。
しかも、誰かを「らく」にしてあげなきゃいけないんですよ。
もうひとりぼっちじゃないけれど、相変わらずうずくまってた私は、誰かを「らく」にさせてあげられる余裕なんてないし、はたらくことなんて無理、と思ってました。
「らく」になってたみたい
家族は、帰省してきた私の存在を確認して、ほっとしてわけです。
田舎に帰った私の存在を喜んでくれて、美味しいご飯とふかふかのお布団と、おふざけをくれました。
なーんにもできないけど、そこに居るだけでよしとされる環境があって、とっても救われました。
人と関わる中で自分の存在を示すことさえも、はたらくになる
のかもしれないなって、気付かせてもらいました。ありがとう家族。
ひとりぼっちで生きるのは、ただ「動いて」いるだけかもしれないけれど。
人と生きるのは、どこかしらで「はたらいて」いると言えそうです。
確かにそこにいるよってこと
なにもしてても、どんな状態であっても、あの子があの子を知っている限り、そのひとは「はたらいて」いるんだと、思います。
「はたらく」を教えてくれたおばあちゃんも、今はもういないけれど、これを書いている間、わたしのために「はたらいて」くれた気がするので。