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②『西田幾多郎 『善の研究』2019年10月』若松英輔(100分 de 名著)

昨日から読み進めて3/4を読み終わったところ。

なるほどなるほど。
哲学だけど、東洋風味。神様の出てこない宗教、みたいな。

以下はあくまでも素人感想です。
全っ然的外れかもですが、ここは私のプライベートエリア。個人的な記録を残していい自由!ということで、どうかご容赦を。

先に引いた一節で西田は「純粋経験」を妨げる者として、①「思想」②「思慮分別」③「判断」の三つがあると述べていました。別な言い方をすれば、この三つから自由になることが「純粋経験」の始まりだということになります。

彼が考えた「純粋」とは、何かを加えることではなく、極限まで周辺にあるものを「引く」ところに大きな特徴があるのです。

第3回『メガネを外して世界を見る』より

極限まで周辺にあるものを取り去ってモノを見たい、って感覚はすごくよくわかる。だけど、なぜ、最後にいっこだけ残してよいものが「直感」なのか。
「思想」と「思慮分別」と「判断」はダメで「直感」ならいいのはなぜなのか。素人目には、気に入らんもんを諸々削って「直感」ってメガネだけを最後に残した風に見える。

世の宗教を眺める時に常々思うのが、「なぜそれ(教義とか神とか)を頂点におくのか?」という疑問。なんでそれが一番なの?どーいう理由でそれが序列1位にくるの?という部分がいっつもわからない。西田先生の哲学には具体的な神様こそ出てこないものの、若松先生の解説によれば、別のかたちでの神は登場してくる(「おおいなる」もの=神)。
人間のもつ様々な感覚や概念の中で、どーして「直感」だけが別格扱いなのか。これが疑問。いつも疑問。んでまた今回も同じく疑問に思った。

哲学ってのは「人間の世界」に限定してやるものなのか、それとも人間の世界をこえた「地球」のレベルで考えるものなのか。
地球上には「直感をもたぬもの」「愛や救いを求めぬもの」もたくさんいる。直感や愛とか救いみたいなモノを真理の最上級に据えちゃったら、空気くんとか石子ちゃんとかはどーなるんですかっ。あいつらのの立場は?

哲学の対象範囲ってどのあたりまでなんだろう?謎。

*****

と、色々書きましたが、西田哲学すっごく面白かったです(^^)
個人的に結構好きな世界観でした。私のメガネとは種類が違うので今は選ばないけれど。
だけど近い将来お世話になる時がきっとくる。愛と救いの哲学は人生の後半戦にこそ必要な哲学(宗教)だと思うから。死や別離、自分の命の終わり、みたいな経験に直面せねばならなくなった時には、「今こそ西田哲学!」と先生のご著書をひっぱりだしてきて、「もがき」「あがき」のおともにページをめくるんじゃなかろうか・・・・なんて思います。

いろんなメガネの哲学があってこそ世界は豊かになるんじゃないか。多様性の時代(^^)

おっと、まだラスト1章が残ってました。こちらを読んで、西田回を終わろうと思います。
先生、ありがとうございました。いつかまたよろしく。


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