くろぎ的四畳半神話大系
※この記事は2020年5月にはてなブログで公開した記事の移管になります!!!!!「四畳半神話大系」の読書感想文です※
0.四畳半自粛戦略の行く末
令和2年、5月上旬。
ほんの数ヶ月前までは世界中がこんな状況に陥るとは夢にも思っていなかっただろう。ラブストーリーは突然に、なんて甘美なハプニングであればどんなに良かったことか。世紀末を震撼させた恐怖の大王が雪辱を果たしに来たのではないか、脳裏にそうよぎるのも無理はない。もう時は2020年なのだからそのまま大人しく寝ていれば良いものを。ただでさえ理不尽たる事象には食傷気味なご時世である。その上ヒールが求められているのか、自分の市場価値を考慮してから出直してきて欲しいものだ。(考慮しないからこそ恐怖の大王だろう、という至極真っ当な指摘は甘んじて受ける。)
夢であれ。窓の外が音すら吸い込む琉璃紺に染まったのを傍目に臥すたび、そんな無意味な逃避を繰り返していたのは私だけではないだろう。
周知の通り、太陽系使徒は無差別に日常を奪い脅かした。ファースト、セカンド、サード……いつ暴発しインパクトを引き起こすか誰にも読めない我々に残された道は戦略的退却であった。すなわち、国家主導のもと屋内で息を潜めることで、健全な経済活動と引き換えに奴の活動を一時的にでも停滞させ、最悪のケースを免れるというものだ。これは国家にとっても市民にとっても苦渋の決断であったことは言うまでもない。
令和2年、5月上旬。
多くの市民にとって慌ただしい日常と決別した安寧が約束されており、ひとたびその麗しく尊い暦に思いを馳せれば酒池肉林で歓喜するに等しい昂りが抑えられない、そんな魅惑的な数日が卓上で、あるいは手帳で、もしくは液晶ディスプレイ上で鎮座して我々のことを待っていた。しかし、太陽系使徒はそんな人間様の都合を知る由もなく津々浦々で暴徒化したことでついに5月上旬の魔力を無力化してしまったのだ。
各々が今か今かと待ち詫びつつ念入りに画策していた遊戯計画は先述の戦略的退却によって全て水泡に帰した。
これは間違いなく私、黒木にとっても死活問題だった。広大な海原を回遊し続けるマグロの如く、外出しなければ暇で干からびてしまう女であることは読者諸君であればご存知であろう。
休日は目的がなくても都内まで出て行く当てなく「ふわふわ」することを生きがいにしていた。むしろ「ふわふわ」することが都内に出かける立派な目的となっていたと表現する方が正確かもしれない。
実家暮らしの時も一人暮らしをしている今も、住居は「物置兼安全睡眠確保空間」に過ぎなかった。自室で「名作」と呼ばれる円盤を再生するような文化的営みを嗜むには基礎設備とほんの少しの教養が足りなかったし、時間の経過を確かめるものもない殺風景な一室で天井を眺めながらぼんやりと自己内省に耽ることにはなんら価値を置いていなかった。気の向くままに猪突猛進、思い立ったが吉日を地で行く私にとって、溢れんばかりの好奇心と新たな刺激を求めるお転婆精神を休息の地である家の中で消化する術を知らなかったのである。
しかし、突然数ヶ月単位で外出自粛を言い渡されたことでそんなことも言っていられなくなった。
「若者は無自覚のうちに太陽系使徒による汚染を受け、またそれを無被曝の対象者に拡散し使徒勢力増幅の片棒を担ぐリスクが高い」
しかも、突然の四面楚歌である。劈くようなキャスターの声、不安とやり場のない怒りの感情を過度に煽るかのような低俗な文言がそこら中に氾濫するようになった。
社会人2年目にも関わらず既に3社目の企業に在籍しているという妙に度胸ある行動力と卓越した社会不適合さを飼い慣らしつつ、あくせくと労働に励むことに対して労いの言葉をかけられることはあれど使徒の手下だなんて嫌疑をかけられる覚えはない。しかし、こうなってしまうと近所を漫ろ歩きをしてしまったが最後、問答無用で正義の鉄拳を喰らえと言わんばかりに血気盛んな自粛警察によって身に覚えのない罪状で懲罰執行されてもおかしくない。なにより、万が一自身がすでに太陽系使徒の毒牙にかけられていた場合、自分の手には負えないほどの責任を背負わねばならぬことは想像に難くなかった。
私的嗜好と社会秩序の狭間で理性的な判断を下した当時の私の心中を推し量るだけで諸君らも枕を絞れるだろうし、逆に諸君らにも人知れず涙を飲んだ夜があったのではないだろうか。
私の「ふわふわタイム」は第三者から不要不急以外の何者でもないと判断されても致し方ない。
かけがえのない安寧たる日常を奪われた上に究極の休息期間も潰されフラストレーションは溜まる一方、しかし社会安定化のための指針であるのだからそれに対しとやかく言うのも筋が通っていないし、そもそも私的な恨み辛みを垂れ流したところで現況が好転するわけではない。
そんな非生産的なエネルギーを持て余すことほど阿呆なことはないということを私は理解していた。
では、この鬱屈とした期間とどう向き合うべきか。検討すべき事項はこちらであったし、自分なりの解を導くことで道は開けると信じたのである。
つまり、だ。どんな苦境であってもプラスの要素を見出し、いかに「ふわふわする」ことができるかを与えられた条件下で検討し、実践することこそが真の「ふわふわタイム愛好家」であると、混沌渦巻く東京都が板橋の住宅街の一角で悟ったのだ。
ひたすら家の中で大人しく過ごすことが正となり、図らずしてまとまった余暇の時間が生まれた私は、これを機にずっと関心を寄せていたアニメ作品を順にリストアップし、観ていくことにした。この時の様子は私がここ数年懇ろにしている青い鳥がしきりにさえずっていた通りである。
今日、私が仰々しく電脳手記を更新したのはなぜか。理由は一つである。森見登美彦作、「四畳半神話大系」を視聴および原作を読了した所感をつらつらと残すためである。それを誰かが渇望しているかどうかは私の関心外なのでご了承願いたい。
……。
ここまでのあらすじ:コロナ自粛でGW暇だったんでずっと気になってた「四畳半神話大系」をついに観ました!今日はその感想を語ります!
(主旨54字の内容を2,300字規模で膨らませるのもまた一興)(森見登美彦風文章を真似たかったが出来なかった)
1.テーマは「青春コンプレックス」。遡行しても同じ運命に収束する結末が妙にリアルで愛おしかった
京都大学に通う「私」は憧れの的になり得ないほど冴えない学生生活を送っており、そんな日常と彼の思考は身に覚えのあるものばかりだった。
「あのサークルを選んでいたら今頃薔薇色のキャンパスライフが…」
「もしあの時ジョニーの言う通り合併交渉に挑んでいれば…否、それは紳士たる者云々」
「小津なんぞと関わらなければ…」
とまぁこんな感じでたらればに苛まれるあまり、四畳半のパラレルトラベルに誘われた「私」だったが、今となってはどうしようもない過去の選択にああでもないこうでもないと思案し、幻想的とも言える青春へ執着する姿はまさしく私を見るようで苦笑いしてしまった。
何を隠そう、私も高校生の時に似たようなことを何度も考えていたのだ。
無論、それは特に同級生である男子高校生の誰からも関心も引く事のないような日陰者のポジションから下克上を起こし学園生活をひっくり返すためだ。
「何かがおかしい。確かに私は人見知りで話し下手で心を開くのに時間がかかるところはあるが、一旦心を許したらある程度は面白みを発揮する自信はあるし、量産型女子高校生ではない、”分かる人には分かる”魅力というものを持ち合わせているはずなのに……」
特に外見だが、純粋に自分の魅せ方が分かっていない(今もなかなかアレだが)が故に究極の芋女、しかも普通のコミュニケーションすら積極的に取ろうとしなかった私に異性としての魅力を感じる男子高校生がいないのは至極当然の話だ。
しかし、当時の自分は内面の部分に目を向けてくれたらもう少し仲良くしてくれる異性がいてもおかしくないんじゃないか、と自己評価していた(内面に目を向けて欲しいなら外見とコミュニケーションの第一関門を突破してから言え定期)(同じ高校だった人がこれを読んだら多分めっちゃ笑うと思う)。
健全な自意識とともに模範的な学生生活を謳歌した人からは「分不相応にめちゃくちゃなことを考えているから喪女なんだろう」という指摘が聞こえてきそうだ。しかし悲しいかな、世の中には驚くほどこのような発想に至る人が多いと思う(特に私とか「私」みたいにしがない存在だった人ほど)。
少し話がそれてしまったが、私の場合は「私」とは違ってかなりツッコミどころ満載な体たらくだったので並べて語ることが果たして適切かどうかは分からないが、
「自分はこんな冴えない学生生活を送るつもりだったのか?何かの間違いだ。もっとこう、放課後になったら先生の監視の目をかいくぐって渋谷まで制服デートに行ったり、試験が近くなったらカフェレストランで待ち合わせしてそのままお互いの得意科目を教えあうような日常が待っていたはずなのに。何も為さないまま折り返し時点に差し掛かっているなんてことがあってはならない。もしかしてクラス替えの時か。初めて出来た彼氏と別れた時か。あの日のメールの返信か。修学旅行の夜か。以下略」
などと心当たりのある分岐点を浮かべては悶々としていたところは驚くほどシンクロしていた。
「私」の話と私の話に共通している面白い部分というのが、決して「薔薇色の学校生活」が手に入っていないのはあくまで「環境の選択ミス」によるものだと信じてやまないところにあり、自分自身に要因があるという発想には至っていないという点である。
自身の境遇に納得いっていない者ほど自分のポテンシャルに問題があるとは夢にも思わず、ただ環境やらタイミングが悪くて燻っているだけなんだと自分に言い聞かせるのはなぜか。答えはシンプルで、それが一番楽であり、為す術ないと諦めたポーズをとりさえすれば冴えない学生生活を送っている自分への懺悔を遂行できたと錯覚することができるからだ。この感覚を共有できる同志がこのブログを読んでいる人の中にもいると私は信じている(いないことの方が喜ばしいのだが)。
さらに、「たられば運命論」を考える上では後者の方がダイレクトに結末を変える力を持っているということに気づけるのは、当時を振り返れるようになってからのことが多いだろう。
その点「私」は非常に幸運な男だ。過去への執念と拗らせがハンパないという童貞力を森見登美彦に見初められたのか、本人にその記憶は残らずとも本来であれば不可能な遡行を通して平行世界線をやり直すことに成功しており、それぞれの世界線では自身のほんの一押しの勇気で運命をガラリと変えられるということを見事に体現している。
小説ではいずれのサークルに所属しても明石さんと成就する(羨まけしからん)(頭脳明晰で可愛い明石さんと結ばれる時点で学生生活勝ち組なんだよなぁ)結末が描かれており、アニメ版の場合、どのルート(=サークル)を選んだかではなく、各世界線で結んでいた明石さんとの”約束”を「私」が覚えており、それをしっかり果たしたかどうかで物語の結末が左右されていた。
つまり、学生生活にとって大きな分岐点と思われていた選択肢(サークルにしろ転機にしろ)でどれを選んだかは瑣末な問題であり、自分が自分としてある限り、取り巻く環境が変わろうとも巡ってくる運命というものは大方同じような終着点に収束するということを四畳半神話大系では語られているのだ。
そして、運命を変えることが出来るのはここぞという場面で純度の高い自分の感情に従って動いた時だけだということを学べるだろう。
決して、「美女たちが程よく存在する環境に身を置けば自然とコミュ力も身について黒髪の乙女と親密な関係になって…」などといった不埒で不純な動機ではいけないのだ。
「私」の場合、薔薇色のキャンパスライフとは無縁の星の下に生まれていたが、知らず知らずのうちに憧れの念を抱いていた明石さんと成就する運命にあることが各世界線の出来事を見ると明確にわかる。「私」が理想を語る中で幾度か「ふはふはとした美女」といった表現が出てきていたが明石さんはそれとは正反対の位置にいる。しかしそんな理想の美女との恋愛劇よりも明石さんとの未来こそが身の丈に合っているし、人生はそういう風にうまくできているというのがリアルに描写されているのがこの世界観に引き込まれる一番の理由だと感じている。
ちなみに「身の丈に合っている」というのは「妥協」という意味ではなく、「私」が「私」として生きる時に最も違和に迎合することなく掴める最大限の幸福、という称賛の表現であることを補足しておく。
樋口師匠も作中で以下のように語っていたが、これがこの作品の真髄であろう。
「我々の大方の苦悩は、あり得べき別の人生を夢想することから始まる。自分の可能性という当てにならないものに望みを託すことが諸悪の根元だ。今ここにある君以外、ほかの何者にもなれない自分を認めなくてはいけない」
たられば禁止。ありもしない自分のポテンシャルを潔く諦める強さと自分を生きることでしか掴めない運命を手繰り寄せることこそが青春コンプレックスから解き放たれるために必要な唯一の治療薬であろう。
この言葉に救われるというか、ハッとさせられる人は多いのではないだろうか。
ちなみに私はこういう論理的には説明できないような運命を割と信じている(あるといいなぁと思っている)タイプだ。
たった20数年の人生だが、これまでの人生の出来事は今の自分を形成するために起こるべくして起きたことであると確信して生きている部分があるため、高校時代に絶望的にモテなかったことも含め今の自分には欠かせない通過点だったと感じている。
他の人から見たらパッとしない10代の軌跡からどんでん返しのごとく伏線が回収され、私すらも予想できなかった素敵な運命に出くわす、なんて最高に面白いじゃないか。
「やり直したい」と後ろ向きに捉えることの多かった若かりし頃を思わず抱きしめたくなるような、そんな運命の答え合わせが出来る日を迎えることを心待ちにしながら生きている。
2.冴えない学生生活こそが何にも代えがたい幻のような日々だった
本作品での見所は明石さんとの恋愛成就だけでなく、一癖もふた癖もある愉快な仲間たちと繰り広げる「冴えない学生生活」そのものにあるだろう。
恋路を邪魔する悪巧みはもちろん、闇鍋、猫ラーメン、試験前の詰め込み勉強、古本市でのバイト、苦い文通、自虐的代理戦争、羽貫さんとの一夜……。
何より、悪友であり、切っても切れない縁で繋がっており、時には宿敵であり憎むべき対象ともなる唯一の友人である小津という存在が揃っていた「私」の学生生活は、理想的な「冴えない学生生活」であり、私のような青春コンプレックスを拗らせた人にとって最も刺さるタイプの学生生活を謳歌しているといえよう。
手に届きそうで届かない学生生活ほど心を抉るものはない。キラキラしすぎた学生生活はどこかフィクションに感じるきらいがあるのは私が正真正銘の日陰者であることを証明しているようでもはや清々しい。
少女漫画を読むようなときめきやサクセスストーリーとは違い、どちらかというと目も当てられないようなカッコ悪さとむさ苦しさと煩悩が溢れているのに、なぜか愛おしく感じた読者が多いのは、それだけ四畳半神話大系で語られた学生生活がなんら特別な世界の話ではないということの表れだろう。すぐそばに彼らはいるのである。
実際、喪女と芋女界隈で他の追随を許さなかった私の冴えない学生生活ですらもなかなか良いものだったなぁとしみじみ思うし、きっと私の学生生活のどこかに小津も樋口師匠も羽貫さんも、「私」もいたんじゃないかという気がしている。すれ違っていたかもなぁ、もっとこの作品を早くに読みたかった。
四畳半神話大系は京都大学在学・下鴨幽水荘の四畳半に住む「私」だけの物語ではない。
かつて早稲田大学に在学し、授業で惰眠を貪りバイトは長続きせず、相変わらず色恋沙汰に巻き込まれることは少なかったものの、バンドだけはゆるゆると4年間続けていた私の物語でもあるし、無数に四畳半は存在するのだろう。
パッとしない学生生活だったなぁ、と思っていても丁寧に振り返ってみるとふふっと笑いたくなっちゃうような出来事は起きていたし、ちょっと簡単には他人に話せないような恥ずかしい黒歴史の記憶も蘇るかもしれない。多感な時期を一緒に過ごした友人の存在こそが最も何にも代えがたい存在であったと痛感するし、年を重ねるほどに当時は意識もしなかったようなちょっとしたこと…講義の時間になればいつものメンツと顔を合わせ講義に出席し、終わったら油そばを食べに行く昼休みや三限を切って行くカラオケ、わけわからないくらい理不尽だったゼミの教授、キャンパス内や馬場でサークル同期や後輩とすれ違うあの一瞬、部室練でのアイス休憩、飲み会後に一人で乗る電車と自己反省会……そういう当たり前の学生生活に価値を見出すようになってしまうのだ。
青春コンプレックスを拗らせた同志、拗らせに関心がある物好き、同じ学び舎で過ごした同期、学生だったあの頃の私と関わりがあった全ての人。
日常が戻った頃にでも、高田馬場の飲み屋で黒木と会いましょう。
たまには冴えない学生生活を肴に飲む日があってもいいだろう。
……お前は飲めないだろというツッコミがここで5000000000000回入る予感がした。
とにもかくにもそんな気持ちが生まれるような作品でした。
私も早く明石さんと成就してえよな〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!!!!!!!!もう明石さんと出会ってんのかな〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!明石さん〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!俺はここにいるぞ〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!(最後の最後で台無し)
これにて感想文のようなもの、おしまい!!!!
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