「好き」の共通点を探す
昨日、「メスガキ」と「理解らせ」というイラストやマンガ創作のジャンルを話題にあげた。
チラッと言ったが「メスガキ」単体はあまり好みではない。
なんの理由もなく「ざっこ」と言われることへの耐性が付いていないので、反発心が湧いてしまうのだ。
これはシューティングゲーム等で「相手と会話をしながらゲームする」という習慣が無いからだと思う。
Discordで通話繋いで、対戦して、勝敗が付いた時に「はいざこ乙」みたいな、そういうゲームの仕方をしていない。
一人で黙々と対戦ゲームをするぼっちなのである。(そもそも最近はゲームすらしていない)
なんだかくろだの悲しい実情が垣間見えたところで、煽り耐性のない状態で「メスガキ」を見るとイラッと来る。
しかしそこにセットで「理解らせ」という展開が入ってくれると、途端に好みの作品になる。
さっきまで粋がっていた人が返り討ちに遭う展開。
この「してやったり感」が好きである。
よく考えると、僕は昔からこういうのが好きだった。
NON STYLEという漫才師が好きだ。
直接言ったのは初めてだが、「芸人が好きだ」の過程で間接的に晒していた情報。
かっこつけてる井上さんに対して石田さんがツッコむ「ボケツッコミ逆転システム」は、どことなく「理解らせ」感がある。
もっと言うと、見えていないものが見えるようにしてくれること、言いたいことを代弁してくれること。
こういう展開が好きなのかもしれない。
だから岡田斗司夫さんのような知見が広い人の動画を見るのが好きだし、アニメの解説動画なんかも見たりする。
そして好きになった作品は何度も見返して、見えていなかったものを見つけるのもおもしろい。
アニメ『葬送のフリーレン』第3話で、フリーレンがフェルンに誕生日プレゼントを渡すシーンがある。
フリーレンにとってはあまり馴染みのないことなので、どことなくぎこちない。
「たまには甘いものでも食べに行こうか」
このセリフを言うのにもとても間を使うし、言った後ドアに向かう足取りは緊張しているのか、手と足が同時に出ているように見える。
人が歩くとき、肩ってあまり動かないでしょ?
でもこのシーンでは「わざとか?」というくらい大きく動いている。
フリーレンはね、動揺しないし、感情を表に出さないし、やること全部が淡々としてなきゃいけないの。
冗談である。
割と表情がコロコロ変わるし、それがかわいい。
こういうのを見つけていくのも「知る」ことであるからおもしろい。
今日のnoteは特にテーマを決めず、ダラダラと「こういうのいいよね」と語る回である。
でも好きの表現は大事よ。
全く関わりのない「メスガキと理解らせ」、「NON STYLEの漫才」、「『葬送のフリーレン』第3話」が「知識欲を満たす」という共通項を持っていることを見つけられる。
そういうフォルダーを作っておくと「これもそうだ」と発見の連鎖が起き、全く関係のないものたちの共通点が発見できる。
この抽象具体は自分独自の世界観を作り出すのに一役買ってくれる。
なんだか堅苦しい話になってきたので終わろうか。
おもしろいものに囲まれて、僕は幸せである。
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