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チェンソーマンから考え始める、アイデンティティと認知の歪み

週刊少年ジャンプ、現在は少年ジャンプ+で連載されておりアニメ化もされた「チェンソーマン」

人間の恐怖が力に変換される「悪魔」という怪物が存在する世界で、鼻にチェーンソーがついた犬の姿の悪魔「ポチタ」と、亡くなった親の借金返済のために悪魔を倒すデビルハンターとしてヤクザにこき使われていたデンジ。ある日デンジの元締めのヤクザの親分が悪魔の力に魅了されてゾンビの悪魔と接触したところゾンビの悪魔に奴隷として取り込まれてしまう。デンジとポチタはデビルハンター狩りをするゾンビの悪魔に一度殺されるも、デンジがポチタと精神世界の中で、契約を結び「チェーンソーの悪魔」の心臓を持つ武器人間「チェンソーマン」として復活、ゾンビの悪魔とゾンビにされたヤクザ共々皆殺しにして、後から到着した公安に拾われて公安のデビルハンターとして生きていくというのが第一部のざっくりとしたあらすじ。

その中の公安襲撃編でゾンビの悪魔に取り込まれたヤクザの親分の孫であり「刀の悪魔」の心臓を持つ武器人間「サムライソード」と二度目の対峙をした時の一幕。


サ「お前の態度次第じゃ俺たちは投降するつもりだ。俺たちはただ怒りを治めたいだけなんだ。デンジ、お前はこいつら(ヤクザ)の仲間と俺のじいちゃんを殺した。その償いをして欲しい。」
デ「てめーのお仲間もじいちゃんもゾンビなってたから殺したんだぜ?」
サ「嘘つくんじゃねぇ!!学歴のねえバカはすぐ嘘つきやがる。…そいつらを殺して、お前は心が痛まないのか?」
デ「全ッ然。」
サ「少しでも人の良心が残ってるなら、俺たちにおとなしく殺されねーか?」
デ「うーん…やだ!」

サ「なるほど…」
サ「じゃあ切り殺してやるよ!」
デ「やってみろよバァ~カ!!」

集英社/藤本タツキ「チェンソーマン」


認知を歪めたサムライソード

デンジの言っていることは100パーセント真実だけど、当のヤクザの親分から甘やかされて育ち、自分の祖父のことを「正義のヤクザ」というお爺ちゃんっ子のサムライソードはそれを信じることができずに一蹴する。親を早々になくし、義務教育を受けることができずに過酷な生活に身を投じていたデンジを「学歴のねぇバカ」と見下し、「そいつらを殺して、お前は心が痛まないのか?」などと見当違いも甚だしい問いかけをする。自分を散々酷使し、遂には殺した相手を殺すことに心が痛むなんて人はそうそういない。
最終的にサムライソード自ら殺しにかかるって流れ。

サムライソードは初めてデンジと対峙した時、
「じいちゃんヤクザだったけど、正義のヤクザでさ。必要悪っていうのかな、じいちゃんみたいな人はさ。女子供も数えるほどしか殺したことないんだと。ヤク売った金で欲しいもんなんでも買ってくれてさ。皆に好かれた江戸っ子堅気のいい人だった。」と語る。
世間一般的に言うと、女子供を数えるほど殺すこともヤク売った金で欲しいものを買う行為も社会通念上よしとされることではない。
けど、自分にポジティブなアクションをしてくれていた祖父に対して正常性のバイアスが働き客観的な是非を捨て、祖父を全肯定してしまうに至ったわけである。

アイデンティティと正常性バイアス

人はだれしも自分の世界が脅かされることは恐れる。

Xとかでよく見られるのは、いわゆるアイドルオタクやジャニーズオタク(スマイルアップオタクって言うの?)が不祥事を起こした推しを全力で擁護する現象。例えば暴行事件とかのスキャンダルがメディアで露出されたときには、暴行をふるった推しに非はなく、暴行させた相手が悪いというようなトンデモ理論を展開している様子をよく見る。

それは自身の支えであり、アイデンティティとなっている偶像が揺らいでしまうから。
凡庸で代りのきく自分を、影響力のある「推し」という偶像に重ねてその自己実現欲求や尊厳欲求、社会的欲求を疑似的に満たしていたのに、その存在が影響力を失ってしまうことは、自分自身を貶められることと同じことになってしまう。

だから自分自身を守る防衛機制として正常性バイアスが働く。その認知を歪めてしまう。

天動説論者が地動説論者を迫害したのも神という偶像を隠れ蓑に自身のそれまでの短くない、ともすれば生涯を捧げたであろう研究の日々というアイデンティティを、いわば人生の全てを真理ではなかったとされることを恐れたからって理由も大きいと思う。人生も佳境に入ったって時に、「あなたの人生は間違いでしたよ」なんて残酷なことを言われてはいそうですかとすんなり納得できる人なんて滅多にいない。誰しもかけた時間に見合う結果を望んでいる。


漫画「チ。-地球の運動について-」の一幕。
異端思想である地動説の論旨を確立をするために、天動説に生涯捧げた研究者が所有する
膨大な量の星空の観察資料の提供を求める場面

考える葦である人間が生きるために必要なことは覚悟をすることなのかもしれない。

万人の持つ返報性の原理。
かけた手間に見合う報酬を望むことは決して悪いことではなく、人類が生き残るためになくてはならない性質だったんだろう。

ただこの世に完全に正しいと言えることはないし、自分のしたことが全て良い結果になるとは限らない。
人間の倫理感や道徳は社会情勢によって変動するし、今現在適用されている諸々の数学の定理や国が施行している法律なんかにも根本的に間違いがあり、そのせいで知らず知らずのうちに不具合が発生しているのかもしれない。

自分が生涯をかけて、取り組んだことが完全に失敗に終わるかもしれない。

そんな状況に陥った時に、自身の認知を歪ませて狂人になってしまうことを避けるために、自分以外の偶像に無責任に自身を捧げるのではなく、全てを受け入れる覚悟や責任というか姿勢を持つことが人生において必要なことなのかもしれない。

なんか岡本太郎の哲学やニーチェの超人哲学みたいな着地点におりたな。
ニーチェみたいに発狂しないように気をつけよう。








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