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病院

2008/09/26
(この記事は2008年のものです)


今日の母は静かで、幻覚や妄想が激しく、とても淋しがりやだ。「もう帰っちゃうの? もっといなよ?」と顔を曇らせる。

昨日の夕飯から、食事が始まった。18日ぶりの食事だ。ドロドロの糊のようなお粥と、少しのお汁、やわらかいおかず。

今日の昼食も同じようなもの。お粥には味がないと言い、海老しんじょのあんかけは、ひとくち口に入れたら、ベーっと吐き出した。離乳食を嫌がる赤ちゃんと、まったく同じ反応だと思った。お汁を半分と、お粥を数口。桃のペースト(まさに離乳食)はほぼ完食。

「アイスクリームが食べたいなあ」「果物が食べたい。梨が食べたい」と子供のように呟く母に、明日の食事の進み具合を見て、それから判断しようねと帰り際に説得した。母は瞬きすることで同意を表す。

「そこのカーテンを開けてごらん。壁のところに手紙が挟まっているでしょ」と、壁にある電気のスイッチ辺りを見つめて母は言う。この間からそこに、手紙が届くのだと言う。「今日は来てないよ」と私は応える。

30センチ開いたカーテンの隙間から黒い服の女性がやってきて、この部屋の隣の応接間に入り込み、置時計などをごっそりと大きな風呂敷に包んで持ち去った話。隣の部屋には病気の父親のほかに、妻と坊や2人が暮らしていて、妻が夫をなじっているらしい。家族内での会話やトラブルを、母は宙を見つめながら穏やかな表情で、嬉しそうに話す。

母のお見舞いとして、花束がたくさん、そしてローチェストやらハイチェストやら、宝石箱やら、様々なものが届いたけれど、そのお返しをしていないことを母は負担に感じているのだと話す。「そういう不義理をするのが私は嫌いなの」 もちろんすべて妄想の世界での話。

「私、あと5年生きられるかな。5年は無理ね。お世辞言ったとしても、あと2年ってところね」と、母は呟く。「どうして2年なの?」と訊いてみたけれど、答えなかった。正直に言えば、あと2年などあり得ないと、私は感じている。それでも意外な展開をするのがこの病気でもある。

母は今日もまだ、導尿の袋をぶら下げている。「オムツ替えがラクね」などと言っている。昨日神経内科のほうの主治医に確認したところ、「泌尿器科の先生と相談して…」などと曖昧な答えしかもらえなかった。

母の話では昨日の夕方泌尿器科の医師が来て、「でも入院中は、導尿しているほうがラクでしょう?」と言ったとのこと。そんないいかげんな対応は、勘弁して欲しいと思う。母の話す医師から伝えられた内容は、いつも意外なほどに正確なのだ。

導尿をやめて、自発的に排尿できるのか、早く確認してほしい。そして少しでも口から栄養がとれるようになればいいが、あまり期待はできない。点滴なしには難しいかもしれない。介護ホームに戻れるのだろうか…。

「便をためないことだね。いつも下痢状態にしておくことだね」と、とっくの昔からわかっていることを、一昨日の回診時に、神経内科科長である医師が言う。

私も姉も、実はこの医師をまったく信用していない。だってリクライニングの車椅子で、まったく移動できない母に向かって「歩く前には座った状態で、少し待ってからね」と言った人だ。「もう、歩けませんから…!」と、呆れて思わず言った。

7~8月の入院中に、あなたはこの患者の、何を診てきたのかと問わずにはいられない。どんどん呆けていって、死に向かって朽ちていくだけの患者に対して、医師としての誠意は、あなたには微塵もないのかと問いたい。実は姉も私もこの病院を、まったく信じていない。残念なことだと思う。

入院して約3週間、母はすっかり不潔になってしまった。肌はガサガサ、頭はフケだらけ。一昨日ドライシャンプーをしてみたけれど、今日はすでに頭から、強い皮脂分泌のニオイがする。こんなに汚れたまま、母を死なせるわけにはいかない。強くそう思う。

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