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病棟からの声

2008/10/31
(この記事は2008年のものです)


「ああーーっ!  ああーーっ  ああーーっ!」
母のいる4人部屋の向いには、いつも大きな声を出しているお婆さんがいる。いったん声が始まると、それはかなり長い間続く。

母の担当医でもある女性医師が向いの部屋を訪れ「○○さん、どうしたの?大丈夫よ」と優しく声をかけると、お婆さんの声はピタリと止む。

そして医師が病室を去ると間もなく、前以上に大きな、より悲痛な色合いが濃くなったような声で、「ああーーっ!  ああーーっ  ああーーっ!」と叫ぶのだ。

お婆さんは何を訴えているんだろうな。淋しいのかもしれない。苦しいのかもしれない。きっと誰かに、何かを伝えたいんだと思う。

この病院のほとんどの患者は、ほぼ多かれ少なかれ皆認知症を抱えていると、医師は言った。

「どんなに認知症が進んでいても、最後まで人間は、嬉しいとか哀しいとか、そういう気持ちは残るものなんです。私達はそこを大切に考えて、接しています」というようなことを、初めに医師から説明された。そのとおりだろうと、私も思っている。

そしてさらに隣の病室からは、お爺さんの大きな声が響き渡る。「お腹が空いたよ~! お腹が空いたよ~!」

お爺さんは何度も何度も大きな声で、空腹を訴える。アルツハイマーなのだろうなと思う。

認知症といっても、もともとタイプが全く違い、認知症そのものの程度もまだまだ軽い母は、お爺さんの声を聞いて眉間を曇らせる。

「血液検査の結果カリウムが欠乏してるからって、新しい大きな錠剤がひとつ増えたの」などと、相手の話したことを正確に記憶している母にとっては、空腹を無駄に訴えるお爺さんは、理解しがたいものだろう。

4人部屋の母以外の3人の方は、母よりもずっと高齢だ。頭が真っ白で、小さい。どうしてなのだかわからないけれど、高齢の寝たきりの人は皆、口を大きく開けて横たわっている。
隣のお婆さんは完全に歯のない口で、大きくパクパクする。看護師さんが時々やってきて、痰の吸引をズゴズゴズゴッとしていく。あんなに大きな口が、どうして開くのか私には不思議なくらいだ。どれだけ丈夫で柔軟な顎関節なんだろうと感心してしまう。

母はこぼしながらも懸命にご飯を食べようと努力し、車椅子に移動して、血圧を測りながら慎重に、他の患者達に混じって食堂でご飯を食べているようだ。
母は、少し変わった。それはある面で認知症がいくらか進んだせいなのか、人間として成長したせいなのか、わからない。
それでも今まで何でも諦めてきた母が、この期に及んで前向きな意志を見せてきたことに、私は少し感動している。

排尿も排便も、まったくコントロールできなくなってしまった母だが、食べるという本能はまだ、充分に生きているのだと実感する。

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