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僕だけが

空に浮かぶ雲を縫って

泳いでゆく鳥達は

たちまち小さくなっていく


背中を押す木枯らしと

戯れる落ち葉達は

風の足跡を作っていく


なんだか僕だけが

あの頃と変わらないまま

取り残されているかのようで


なんだか僕だけが

時間の刻み方がわからないまま

未来に拒絶されているかのようで


ただただ愛情をねだる子供のように

いたずらばかりを繰り返す

ただただ存在意義を証明するために

傷だらけの声帯を震わせる


近道なんて知らない

遠回りしてばかりだ

でも今はそれでいい


魂の叫びは

形を変えて

きっと未来に

繋がっているから


諦めない限り

終わりなんてないのだから

今はただ

そう信じてる
*******************
諦めたら、そこで試合終了ですよ。という名言を残したスラムダンクの安西先生(筆:井上雄彦)の言葉が意外と背中を押してくれていることに気付いた菜っ葉です🙃ヒダリテハソエルダケ🏀

諦めも肝心という言葉と相反する言葉ですね。
名言とかことわざとか、相反する意味の言葉がありますが、どちらが真理なのでしょう。

…まぁ詰まる所、どちらも真理ということになるのでしょうか。
その状況をわかりやすく一言で表現できるようにしたものが熟語やことわざなんだとすれば、どちらも起こり得る現実。

実際に、諦めて別な選択をしたことで成功を手にしている人はごまんといます。

諦めないことが正義という風潮が強い世の中だと個人的に感じていますが、場合によってはそうでもないのが現実です。

難しいよなぁって思うんですよ。
だって、考え方や見方によって、諦めにもなり、ならなかったりするのですから。

例えば、ある場所にたどり着くという目的があったとして。
そこまで徒歩で向かっていて、とある理由からタクシーに変更して、無事にゴールできましたー!バンザーイ🙌
という一連の流れがあるとき。
最終的な目的は果たされていても、徒歩は諦めていますよね。
これを諦めと解釈するのか、ただの手段の変更と解釈するのかで、意味合いが変わってきます。
フォーカスをどこに当てるかで、簡単に変わってしまう曖昧なものなのです。

何が言いたいかと言うと、これを過去の体験に置き換えてみた時に、諦めだと思っていたことは、実はそうではなかったのではないかという可能性があるんじゃないかって。ふと思うのです。

その時は、諦めだと自他共に思っていたとしても、さらに少し先の未来で目的を果たせていたり、結果オーライなんてこともあります。
例えば、地球外の地質調査をするとして。
火星に行けなかったとしても、月には行けたという結果だって、目的達成に変わりはないですよね。

それを踏まえると、自分には諦め癖があるだとか、逃げ癖があるだとか、そうやって知らず知らず追い詰めている人は、本当にそうなんだろうかと思うのです。

諦めと手段の変更は別物だと思うんですよね。

極論、生きるということを目的とするならば、生きている間は、逃げても辞めても諦めたことにはならないのではないかとさえ思うのです。
まぁあくまで極端な例ですが。

人は、誰しも戦っています。
世間、社会、自分を取り巻く全てと。
そして、自分自身ともです。

生きてなんぼのこの世界。
命を懸ける価値のあるものって一握りです。
本当に命を懸ける価値のあるものかどうか、自分が本当に大切にしているもの、したいものは何なのか。
それをちゃんと見失わず、いつも明確にしておけば、手段も自ずと見えてくると思うのです。
大義名分とかじゃなくて。
本当に自分が心から大切だと思うもの。

ものの価値は千差万別だと思います。
人の数だけ価値観があり、真実があるように。
誰かにとって価値がなくても、その他の人には価値があるなんて、よくある話です。

世間とか常識とか、そんなものは一旦排除して、しがらみとか枷の類も排除して、そうやって引き算をした結果、最後まで排除されないものが、自分にとって大切なものになると思うから。

そして、それが自分自身を大切にすることに繋がると思うのです。

目をそらさず見つめていたいものです。

本当に大切なものを。

ただそれだけを。

そして自分自身を。

最後まで読んでいただき、ありがとうこざいました🦄

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