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アイ
愛が足りない
人は誰しも愛が必要だ
目には見えないものなのに
無理矢理具現化し
それを愛だと
錯覚させる
愛は感じるものだから
モノに宿ることはあっても
モノが愛になるわけではない
その奥に宿る想いを
汲み取れないと
気付くことはできない
愛はそこら中に溢れている
ただ
気付けていないだけなんだ
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9月になって時が経つ早さに改めて憂いを感じる菜っ葉です🙃ども。
あんなに暑かった灼熱地獄。
まだ昼間こそ暑いですが、朝晩には少し灼熱具合が軽減されているように感じます。
秋が来ているんでしょうね。
目には見えなくても肌や耳で感じることができる。
愛もそうなんだと思います。
目には見えなくても、でも確かにそこにあるのです。
それはそう感じるから。
他の感覚でそれを認識しているから。
頭で考えたり、耳や肌で感じたり、様々な感覚を通して、最終的には心で愛だということに辿り着くのです。
愛が届くまでの道のりはきっと長く、険しいものなんだと思います。
だからこそ、何度でも伝えるのでしょう。
色んな方法で。
伝えたつもりでも伝わっているかわからない。
間違って伝わっているかもしれない。
ちゃんと伝わるまで、いや、ちゃんと伝わっていたとしても伝えたいもの。
愛のリミットは無限大なんでしょうね。
一回では伝わらないものだとすれば、二回三回と何度もで伝えるしかありません。
愛が欲しいと叫んでいる子供に、これが愛だとムチを打っても伝わるはずもない。
抱きしめてあげなければ、伝わらない。
道を踏み外そうとしている人にこそ、ムチを打ってでも止めてあげることが愛なんだと僕は思う。
多かれ少なかれ愛はそこら中に溢れている。
それに気がつけるか。
気付いてもらえているか。は別のお話。
愛をもらっているのに。
それを愛だということに気付けない。
それを哀として受け取ってしまう。
アイにはいろんなアイがある。
慈しむ心、思いやりから生まれるものは、間違いなく愛です。
行動や言葉の真意、本質を見抜けなければ、きっと本当の意味には辿り着けません。
例え気付けず過ぎたとて。
今一度、振り返れば。
そこには必ず愛がある。
僕はそう信じています。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました(*´ω`*)