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ヒッポのアウグスティヌス 理性と信仰

こちらはヨハネパウロ二世が公布した使徒的書簡『ヒッポのアウグス
チヌス』からの引用をもって話を進めさせて頂いております。
※現在、出版社では「品切れ」状態

今回は、2章「教会博士」1節「理性と信仰」より、引用させて頂きます。

何よりもまず、彼の青年期にもっとも彼を煩(わずら)わせ、そして次に天才的能力とその精神的徳業をもって対応した問題があります。理性と信仰の関係についての問題です。この問題は、過去のみならず今日においても深刻なものとしてとどまっています。そしてその解決は、人間の全思考によって導かれます。しかしこれが厄介な問題であるのは、二つの極端、つまり理性を否定する信仰主義と信仰を排除する唯理主義との間を、ほとんど健全に、無傷で通過しなければならないからです。それゆえアウグスチヌスの知性的また司牧的努力は、疑わずとも「学ぶのに二つの強い力によって動かされている」以上、理性と信仰は共同で働くべきものであると示すことに向けられていました。

『ヒッポのアウグスチヌス』より引用

「理性」と「信仰」は二者択一ではない…ということを、ヨハネパウロ二世は使途的書簡にて申し述べたい様子です。

かつて、中世のスコラ哲学を、近代以降の哲学者は「哲学は神学の婢(はしため)」と揶揄(やゆ)した訳ですが、それは、理性では「神」のことは語り尽くせない(※専門用語では否定神学)と、神を扱う学としての神学をして、信仰を優先させ、理性は、所詮は、被造物である人間の「脳ミソ」による活動に過ぎない訳であるから…絶対者である「神」を把握できない…とする、一種の「不可知論」に陥ったり、はたまた、ここまでは云えるが、ここから先は云えない、というカンタベリーのアンセルムスのような「知解を求める信仰」に至るまで、この「理性」と「信仰」のバランスは、かなり難しい問題ですが、この使徒的書簡では、次のような文章で、それを説明しようと試みています。

彼はいつも信仰が語るところに耳を傾けましたが、現世的な秩序や重大性に関しては、それに優位性や独自性を与えて、しばしば理性を称揚しました。彼は皆に、「理解するためには信じなさい」と言い、しかし繰り返して、「信じるためには理解しなさい」とも言っています。彼は、現代にも通用する信仰の有用性について、一冊の書物を書き、次にように説きました。
信じることとは、精神の目をいやすことを目的とした薬であり、すべての人々、とくに弱者を誤謬から守るための征服されることのない要塞であり、魂が高く飛ぶために翼を休めるために休める巣であり、人がすぐさま知ることを許される近道、確実でまた限りなく、人間を叡智に導く真実であると。

『ヒッポのアウグスチヌス』より引用

上記「一冊の書物を書き」とは『信の効用』という1冊だそうです。

『アウグスティヌス著作集』第4巻に収録されていますので、現在、読み進めている『真の宗教』が読み終わったらば、そちらに読み進めてみようと思いました。

次回は、同じく第二章「教会博士」より、第2節「神と人間」へと進んで参りたいと思います。

それでは、またの機会に、お元気で。

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