日常気まま旅回想記 四国編 高知を経て家路へ
車中泊旅5日目、太平洋側に出ると急に空と海の空気が変わったように感じた。いよいよ高知県に入る。
足摺岬に行く途中の半島の根本にジョン万次郎の記念館があった。昔、井伏鱒二の本を読んで、万次郎に興味があったので、資料館を訪問した。この辺は、土佐清水というところで、南国の海に囲まれた温暖な土地で、心地よい空気がかんじとれた。
ジョン万次郎の生涯
・日本人で初めてアメリカの正式な学校に通った人
・日本人で初めて地球を二周した人(捕鯨船で働きながら)
・日本人で初めてネイティブな英語を話せた人
ジョン万次郎の生涯をsukeさん(マイCahtGtp04)に頼むと、1200字程度でまとめてくれました。興味のある人は読んで下さい。(興味のない方は下の段にとばして下さい)
ジョン万次郎(本名:中浜万次郎)は、1827年1月27日、土佐国中ノ浜村(現在の高知県土佐清水市)に生まれました。貧しい漁師の家に生まれ、幼少期に父を亡くし、母と兄の病弱もあり、家計を支えるため幼い頃から働きました。読み書きの機会はほとんどありませんでしたが、10歳頃には漁師としての生活を選びました。
万次郎の人生が一変したのは1841年、14歳の時です。仲間と漁に出ていた際、突然の嵐に遭い船が難破。5日以上漂流した後、鳥島に漂着しました。過酷な環境下で143日間生き延びた後、アメリカの捕鯨船に救助されました。当時の日本は鎖国中だったため、帰国の術はなく、そのままアメリカへ渡ることとなります。
捕鯨船の船長ウィリアム・ホイットフィールドは万次郎の機転と好奇心を見込み、彼をアメリカ本土へ連れて行きます。マサチューセッツ州ニューベッドフォードの隣町フェアヘーブンで船長と共に生活し、オックスフォード・スクールやバートレット・アカデミーで英語、数学、航海術、測量などを学びました。寝る間を惜しんで勉強し、首席で卒業した万次郎は、アメリカの民主主義や男女平等、人種差別にも触れるなど、多くの異文化を経験します。
学校卒業後は捕鯨船員として働き、大西洋やインド洋、太平洋を渡る航海生活を送りました。その間、ハワイで旧知の漂流仲間と再会したり、ゴールドラッシュで沸く金鉱で資金を得たりして帰国を目指します。この命がけで貯めた資金で、小舟「アドベンチャー号」を購入し、上海を経由して琉球に到着。ここで琉球王国の協力を得て日本への帰国を果たしました。
帰国後の万次郎は、外国で学んだ知識や経験を幕府に報告し、通訳や航海術の教官として活躍します。ペリー来航後には日米交渉に貢献し、幕末の日本における国際化の先駆者となりました。明治になってから3年ほどは公職につき活躍しますが、体調を壊したことを機に、仕事をやめて静かに暮らしました。1898年11月12日に71歳で死去。
ジョン万次郎は、貧しい漁師の少年から世界を渡り歩く知識人へと成長し、日本の近代化に大きく貢献した人物です。その生涯は、困難に立ち向かい未知の世界を切り開く勇気と希望に満ちたものでした。
万次郎の老後に思う
万次郎資料館を訪れていくつかの興味がわきました。
万次郎は43歳で脳溢血に倒れた。幸い症状は軽く、リハビリを経て通常の生活ができるまでに回復する。しかし、それを機にすべての公職を辞し、穏やかな日々を送る道を選んだと言われる。71歳で亡くなるまでの28年間、仕事をはなれ自由な生活をして暮らしたようだ。71年間のうちの28年というと、人生の4割近くをしがらみもなく自由に暮らしたことになる。
その静かな暮らしの中で、万次郎が一度だけ冒険心をのぞかせた記録がある。61歳のとき、小笠原諸島への航海を行ったというものだ。かつて日本人として初めて世界一周を成し遂げ、さらに二度目の世界一周も経験した彼の血が、この航海で再び騒いだのだろうか。広大な海を目の当たりにしながら、若き日の冒険を思い出していたのかもしれない。
また、晩年にアメリカの友人が彼を訪ねた際、「英語を話せなかった」という逸話も伝わる。しかしこれは、万次郎の謙虚な性格を物語るエピソードの一つなのではないだろうか。英語を話せなかったというよりも、長い年月の中で必要性が薄れ、彼自身がその能力を意識的に遠ざけていた可能性もある。
人生の後半を通じて、彼は大きな舞台を降り、庭先や書斎で過ごす穏やかな日々に身を置いた。とはいえ、その内面では海と冒険の記憶が静かに息づいていたのかもしれない。
猫と旅する若い女性
それから、四万十川の河口にある中村という町をみて、美味しいと聞いた割烹料理店の予約を入れると満席と断られたので、この町を通りこしてしばらく行った松のある道の駅に車中泊した。前は砂浜でサーフィンをしていた。駐車場は広く、松の木が適当にあるので居心地がよかった。サイクリングロードがあり、車に積んであった折り畳み自転車に乗って、漁港までサイクリングした。途中がロケーションのよい公園になっており、しみじみと伸び伸びとした気分にしてくれた。この旅一番のロケーションのいいねぐらになった。
朝起きると松の木を挟んで隣に黒のワゴン車がとまり、目張りはしているがフロントガラスに猫が居た。前日もこの車が気になっていたが、よく見ると3匹ほどいた。車から若い女性がでて来た。いったい何匹の猫を連れて旅しているのか気になった。…猫と一緒の車中泊女一人旅か?余程猫が好きなんだ…
黒いワゴン車から出てきた若い女性は、柔らかな笑顔を浮かべてこちらに会釈をした。軽く寝癖のついた髪に、動きやすそうなカジュアルな服装。そんな彼女が、車のフロントガラスに顔を押し付けていた猫を軽く手招きで呼び寄せると、猫たちは不思議と素直に彼女の元へ戻っていった。
私は思い切って話しかけてみた。
「おはようございます。猫と一緒に旅をされてるんですか?」
彼女は少し驚いたようだったが、すぐに明るい声で返してきた。
「そうなんです!猫たちと車中泊しながら、いろんな景色を見て回ってます。」
猫が好きなんですね、と聞くと、彼女は嬉しそうに頷いた。
「大好きです!今、3匹連れてます。あの黒いのがクロ、茶色のがモカ、そして白いのがユキです。みんな保護猫で、一緒に暮らし始めたら離れられなくなって。どうせなら一緒にいろんなところに行こうって思ったんです。」
彼女が車中泊を始めたきっかけを尋ねると、少し遠くを見るような目をして話し始めた。
「実は、普通に生活してたんですけど、仕事でちょっと疲れちゃって。一度リセットしたくて。猫たちがいてくれたから、どこに行っても寂しくないし、むしろ猫たちと旅するのがすごく楽しくて。」
そう言って彼女は猫たちを愛おしそうに見つめた。クロが彼女の足元に擦り寄り、モカは彼女のリュックに興味津々な様子で頭を突っ込んでいる。ユキは車の窓辺でじっと外を見ている。
「車の中で猫と一緒にいるのは大変じゃないですか?」と尋ねると、彼女は苦笑した。
「まぁ、快適ってわけじゃないですけど、慣れれば平気ですよ。猫たちが文句を言わないのが救いかな。それに、毎日違う景色で目を覚ますのがすごく新鮮で。贅沢な生活ではないけど、自分らしさってこういうことなのかなって感じます。」
「自分らしい!」という言葉が妙に胸に響いた。彼女の生き方は、決して派手ではないけれど、何か大切なものを手にしているように思えた。別れ際に、「良い旅を」と声をかけると、彼女は振り向いて明るい笑顔を返してきた。その姿が、今も心に残り続けている。
目に青葉 山ほととぎす 初鰹
この日、車を一気に走らせて室戸岬までたどり着いた。途中、「なぶら」という道の駅に立ち寄り、そこでカツオのたたき定食を食べたのだが、これが今まで味わったことのない美味しさだった。分厚く切られたカツオに粗塩がふられ、香ばしい風味が広がる。その旨さに思わず感嘆した。聞けば、この道の駅の近くにある明神水産という会社が経営しているらしい。もともとカツオは好きな魚だったが、これほど美味しいと感じたのは初めてだった。大昔に高知で食べたカツオも美味しかったが、それとは比較にならない。この味を忘れられず、以来、ここで食べたカツオを夢見るようになった。
歩き遍路の人の姿が目に焼き付いた
この日は室戸岬の西側にある道の駅で車中泊をした。横長の道の駅はハイウェイ沿いに広がり、駐車場の目の前には崖の海が広がっていた。風は強く、荒々しい波が次々と打ち寄せている。車や人の出入りが多かったが、潮騒の音がその騒音をかき消してくれた。
売店の前には長椅子が置かれており、その上に寝袋を敷いて寝ている人がいた。どうやら歩き遍路の男性のようだった。年齢は自分より少し上に見える。この長い長い扇形の蒲鉾のような海岸線を車で走ってくる途中でも、歩き遍路の人たちを何度も見かけた。いったい彼らはこの距離をどのくらいの日数をかけて歩いているのだろう――そんなことを思いながら、前日の道の駅で見かけた若い遍路の男性を思い出した。彼は海岸にテントを張り、静かに眠っていた。
いつか自分も歩き遍路をしてみたい――そんな思いが心をよぎった。目の前に広がる荒海の潮騒がこもり歌のように聞こえ、この夜はぐっすりと眠ることができた。
阿南イザリ漁港をへて一路家路に
翌日、室戸岬から一気に家路についた。
途中、阿南の南にある海に突き出た半島へ向かい、「イザリ」という食事処に立ち寄った。以前、テレビ番組「人生の楽園」でこの店が紹介され、漁師の女将が作るアワビとイセエビの料理があまりに美味しそうだったからだ。だが、この日はアワビもイセエビもなかった。仕方なく刺身と天ぷらの定食を注文したが、普通に美味しかった。特に、この店に来るまでの道中が印象的だった。鬱蒼と茂る幾つもの山を抜け、道が海際へ近づくと、赤茶けた岩肌の切り立った崖が現れ、その先にゴツゴツとした岩が磯を埋め尽くしていた。この荒々しい景色を見ただけでも、十分に満足感を得られた。
家に戻ってから、毎朝、家の北側にある山の頂上まで歩くことが日課になった。晴れた日にその頂上に立つと、遠く四国の山々がはっきりと見え、その先に阿南の半島がうっすらと霞んで浮かび上がる。
あの日、阿南の半島の高台からこちらを眺めていた自分と、こうして日常を歩む自分。その二つが確かに繋がり、一本の細い糸のように続いている気がした。その糸は、旅先で見た風景や触れた時間を、今という瞬間と静かに結びつけているのだろう。