復興した安祥寺の特別拝観
午前8時。
大津の自宅から「安祥寺」に向かった。旧東海道の石畳を抜けて小関峠を越えて、琵琶湖疏水沿いに京都山科へと歩いた。2時間弱の時間をかけてたどり着いたお寺は、平安京遷都からおよそ50年後の文徳天皇生母である藤原順子皇太后により発願され創建された「吉祥山安祥寺」。
藤原順子は、藤原冬嗣の長女で、55代文徳天皇の生母。大河ドラマ「光の君へ」の一条天皇が文徳天皇から11代後の66代天皇。藤原順子の父の藤原冬嗣から、吉房、基経、忠平、師輔、兼家と6代続いて、藤原道長となりますから、紫式部の時代の150年ほど前の頃でしょうか。
場所は、山科駅から500mほど北上した位置にあり、鏡山の麓になります。
当時は、醍醐寺のように、山の上の安祥寺上寺と麓の下寺と二つの寺院があり、それぞれたくさんの伽藍のある立派な寺院でした。
しかし、上寺は徐々に修行僧もいなくなり、住職もいなくなったことから廃れてしまい、下寺も応仁・文明の乱にてほとんど焦土となったようです。
戦国兵乱も落ち着いた江戸時代。家康によって1613年に藤原順子皇太后施入の山林および境内地復旧の令を受けて下寺が再建され、上寺跡に残されていた仏像なども移されました。安祥寺上寺は、その後も再建はされず安祥寺上寺跡として遺跡が残っているだけになっています。
下寺も江戸時代に再建されたとは言え、その後は檀家もおらず参拝者を迎えられる状態ではなくなり、、多宝塔にあった国宝「五智如来坐像」は京都国立博物館に寄託された状態(このブログを書いている現在、奈良国立博物館「空海ー密教のルーツとマンダラ世界」で展示中)。その多宝塔も明治39年に焼失してしまった。明治の神仏分離や廃仏毀釈で独立したが、寺領のほとんどはお隣の毘沙門堂に売却し、かなり寺領は縮小してしまった。
また琵琶湖疏水によって境内を東西に分断されることになり、安祥寺のすぐ東側は県立洛東高校があり、生徒たちの声がすぐ近くに聞こえてきます。
そのような盛衰を繰り返した安祥寺を復活させようと、現在の住職が2018年に立ち上がり、拝観の出来るお寺に復興させようとボランティアさんたちと頑張ってここまで綺麗になりました。まだ毎日拝観できませんが、当面の一般拝観は6月8、9、16、17日ということで、6月8日に大津から山科まで歩いて拝観に参った次第です。
拝観料500円を納めて順路を教えていただき観音堂へと向かいます。
何も知らずに訪れれば、「風情のあるお寺だね」って感じですが、ここまでに至る経緯を知るとその歴史の深さに込み上げてくるものがあります。
2.51mの高さのある木造十一面観音像は、目の前まで近づけます。なんとも美しい体躯に優しいお顔。続いてその奥の青龍殿へ進みます。
この安祥寺の北側に広がる如意ヶ嶽周辺は10年ほど前から趣味の山歩きとして少しずつ行動範囲を広げてきた場所でもあり、安祥寺の名前は知っておりましたが、上寺跡が残っているだけで下寺が復興中であったことも知りませんでした。この度、見事に復興されたことはこの上なく喜ばしいことであり、拝観が可能だと知った時にすぐに訪れた次第です。まだ毎日拝観とはいかず、2024年6月においては8日、9日、15日、16日の4日間とのこと。また近い将来に毎日拝観ができるようになり、多宝塔も復興され国宝も再びお祀りすることができたならこの上ない喜びと思います。
大文字山に登っていたとき、毘沙門堂を過ぎて安祥寺上寺跡に向かう途中にあるこの「後山階陵遺跡」ってなんだろう?って思っていました。この遺跡は日本古来の製鉄技術を「たたら製鉄」と言いますが、その製鉄遺跡の跡で石造にも「たたら遺跡」と書いてあります。