この日は、山科駅からスタート。地下道をくぐって山のある北側へ進みます。 住宅街を抜けて琵琶湖疏水の洛東高校脇を北上。 「もみじまつり」のポスターがあります。11月23日からとありますので、紅葉にはまだ早かっただろうか? 毘沙門堂門跡に到着しましたが、色づきはじめという感じ。 今年はやや遅れているようです。 有名な「敷き紅葉」の石段もこのような感じで、まだうっすらと赤みが出てきた程度です。 参考までに、2022年11月23日に撮影した時はこんな見事な敷き紅葉でし
日々、片付けと断捨離。 「まだ使える」「使わないけど品はいい」「いつか使う」「子供たちが使うかもしれない」 これらの理由で捨てずに残すのはやめた。 そうでもしないとどんどんモノが増えるばかり。 今は諸事情あって、3軒分のモノが1軒に集まった状態で途方に暮れている。 遺品整理もまだ完全に終わっていないのに。 自分の過去の膨大な写真もほぼ捨てて、蔵書も95%処分、書類も整理して処分、人形類も処分、洋服も食器も必要な分だけで残りは処分。 まだまだ十分使
車を手放した。 今までずっと車のある生活だった。車がなくては生活ができない場所に住んでいた。買い物はもちろん、映画を観に行くのも、駅までの送迎、旅行も、帰省も、タバコ一つ買うのも車での移動だった。 それが今の街に住むようになって状況は一変した。以前よりは都会ではあるが、道が狭くて、駐車場も少なく駐車場に困り、電車の方が便利にな社会になった。 車に乗る頻度が少しずつ減ってきた。当初は隣の京都市街地に行くにも車で行っていたが、今では車で行くことはまずない。普段の買い物も
足慣らしでよく歩いていた「大津〜山科」も、 この夏の猛暑でなかなか歩けなかった。 やっと涼しくなってきたので、500mlの冷たい麦茶を持って出発。 旧東海道を西に向かって歩いていきます。 電線・電話線の地中化し、石畳を敷いて、町家風建築物を保存して少しずつ少しずつ観光化に頑張っています。 日本橋三越をはじめ全国百貨店に出店している叶匠壽庵(かのうしょうじゅあん)の本店は、こんなに小さな町の和菓子屋さん。 いつもお店の前は、打ち水されて小綺麗にされてい
「よだんをゆるさない」の「よだん」は、漢字でどう書くのか? 「予断」なのか「余談」なのか? 「よだんをゆるさない」は、 前もって判断が出来ない。情勢が不安定なこと。なのか? あるいは、こんな大事な時に本筋とは違う話をするんじゃない!ってことなのか? ご存知のように、当然正解は前者の、 「予断を許さない」=前もって判断することができない。情勢が不安定なさまに言う。 知らない他人にとっては、どっちだろう?って事になりそう。 「余談を許さない」は
下原スイカをいただきました。 大玉4Lサイズを2玉。1玉10kgほどあるので、一つだけ持ちあげるだけで腰にきます。 宅配便のお兄さんは、その2玉入りの箱を軽々と持ってくるから凄い! 私が留守中に届いて、早速妻が1玉を持って2階へと運びましたが、 「ヤバいヤバい、腰にきた!」と叫んでいます。 半分に切ってみると、ピシピシっと鋭く割れる音と共に、 フワ〜っといい香りが漂ってきます。 「あぁ、これ絶対うまいやつだわ!」 残った半分にラップして冷蔵庫
伊勢金比羅参宮日記に記されている「旅中心得」。その中の持ち物について解説していきます。江戸時代末期の伊勢金比羅詣りではどのようなものを持って行ったのでしょう?ひとつひとつ簡単に解説していきたいと思います。 黒ちりめん単羽織 「これは春夏共に必要になる。京都は3月朝から単を多用。」 * 「ちりめん」とは、縦糸にヨリのない糸、横糸には左右にヨリをかけながら織った生地で、見た目に細かくクシュクシュとした感じがしています。シワになりにくく伸縮性があります。 単衣羽織は、薄手
旅は長休みするべからず。 朝は早く出発、暮れの到着は早く着くように心がけること。とにかく急がず、怠らず歩行することが肝要である。 まだ暮れには早いと言って、もう1〜2里越えて泊まるというのは良くない。それで足を痛めるものである。且つ出発が遅れると万事人の後になってしまい困る。 山路に入ったら、余裕をもって良い宿を見つけ次第、日が高くても泊まってしまうこと。行き暮れて坂などにかかってしまうととても困ってしまう。 たまたま早く到着してしまったら、しらみ狩りの
4月6日(68日目) 碓氷峠・横川関所・高崎 天気吉、沓掛、軽井沢までを三宿と言う。賤妓多し、遊ぶべからず。 これから碓井峠にかかる。この峠は、下りばかりで、登り18丁、下り2里8丁である。今日は薄雲を催す。 坂本に出て中食。そこから横川の御関所にかかる。この御関所は下りであれば届けなくても良い、ずっと通りて苦しからず。 そこから松井田、安中、板鼻、高崎に夕刻到着。大黒屋九兵衛に泊まる。宿悪し。 4月7日(69日目) 目出度く帰宅 天気吉、高崎でいろい
4月3日(65日目) 松本から長野 天気吉、暖気風少しあり。 岡田宿を出発して、少し行き仇坂峠あり。峯まで1里8丁、茶屋あり。 そこから苅屋原宿会田たち峠(苅谷原宿・会田・立峠)あり。難所である。 そこから青柳宿で茶漬。 少々行きて石の切通あり。長さ十五間、幅1丈1尺、高さ1丈5~6尺、文化6年(1809年)4月切通とある。 そこから尾見宿に至る。この宿端から姥捨山へ行く道がある。1本松と聞き行く。細道で難所である。姥捨まで2里半余りなり。姥捨山は放光
3月30日(62日目) 木曽路 天気吉、中津川から落合へ。そこから馬込宿の間に十石村がある。十石峠という。この峠は美濃と信濃との境である。 そこから馬籠峠を越し、妻籠に至る。このあたりから馬の子をとる家が多い。12月に生まれたため7日間だけ馬屋におり、そこから山野に出して親子共に放し置く。 昨日から絶え間なく木曽川の谷間を行く。山の中では杜鵑(とけん:杜鵑は『ほととぎす』の意味。つつじの一種でほととぎすが鳴く頃に花を咲かせる。さつき)、花山吹、藤の花などが盛りであ
3月27日(59日目) 関ヶ原 天気吉、暖気、早晨に出発し少し行って、美濃と近江の寝物語の家がある。縁起を売る。 そこから少々行き、車返しの坂がある。今須峠。 今須を越えて、常磐御前(源義朝の正妻:頼朝義経の母、平清盛の愛妾)の石塔があったが見られず。左の方に城跡(玉城跡)がある。 また小さな峠がある。大関村、不破の関跡あり。 そこから関ヶ原宿に至る。この辺りで養老酒を売る家多し。味わい吉、垂井宿を過ぎて、熊坂物見の松、青野が原あり。圓顔寺(円興寺)、義朝
3月24日(56日目) 八瀬より叡山延暦寺経て大津三井寺へ 天気吉、少々曇る。今日は出発、比叡山越を心掛ける。 下加茂から八瀬の里へ向かう。そこから比叡山の麓、八瀬の里に3軒ほど茶屋がある。ここでは兎も角も食事をして、案内を頼むこと。山中では道を聞ける人もなく、また飲食もない。また、わらじを用意しておくこと。 叡山(延暦寺)は甚だ大廃しており衰いている。しかしながら大伽藍である。金の双林塔(相輪橖)がある。 伝教大師の中門を過ぎて、山王権現(日吉大社)に至る。
3月21日(53日目) 大徳寺・壬生・東寺 天気吉、早朝黒門へ。 誓願寺の福井丹波守様(福井楓亭の長子(榕亭):医の宗家)を訪ねる。昨年5月中近江守(丹波守の長子:医師:従四位)が亡くなり、子息は21歳であるという。 そこから帰りかけ途中に連中に合う。雲林院に行く。名前だけで見どころはない。 大徳寺座敷拝見、妙なり。ただし400文。 金閣寺、北野天神(北野天満宮)、壬生寺、但し壬生踊り(壬生狂言)あり一見。 そこから東寺大師様参詣。人多し。そして島原(
3月18日(50日目) 宇治平等院 雨天、出発して岩清水八幡宮へ参詣する。そこから宇治へ至る。茶飯を食べて、そこから平等院へ行く。宝物開帳、古色見ておくこと。(源)頼政の墓、高倉院の古殿、扇の芝鎧掛の松など一見。 そこから黄檗山萬福寺一見、唐造作、見るべきものなり。 伏見に廻り、藤の森天王稲荷社(伏見稲荷大社)、東福寺など雨であったので寄らなかった。 伏見から京まで町続き、但し2里半、夕刻3条通り大榎東、越後屋五郎兵衛宅に着。 3月19日(51日目) 京都
3月15日(47日目) 住吉大社・四天王寺 曇天、九つ半時(午後1時)より天気。 この日、境(堺)に行く。妙国寺の蘇鉄を一見。この辺は鍛冶屋が多い。どの鍛冶屋もみな本家、本家と申す。刃物は一切きれず、決して買ってはいけない。 途中よりいろいろと這●●に勧めてくる人が出るが、決して取り合ってはいけない。 住吉四処明神(住吉大社)は大社であった。参詣する。そこから茶臼山麓に一心寺があり、石塔に討ち死にした人たちの姓名があった、分明ならず。 そこから天王寺(四天王