現在の信仰とコンテンツ

久々にNoteをひらく。
最近は書くことから離れていた。

それは、結婚したことで生活が変わったこともあるし、
むしろ読むことのほうが増えたからでもある。

その変化は良くも悪くも捉えることができて、
うんざりするほどの孤独を抱える暇は失せたが、
一人の暮らしと時間を恋しく思うこともあった。

書かなくなったことは、
書くことがなかったわけではない。

ただ一時期のように己を確認する必要性を、
それほど逼迫して感じなかっただけのことだった。

それでも考えることはあって、
日々モヤモヤと思うこともある。

書くことはそれを整理することだから、
今日は休日の朝のうちに現在地を確かめよう。


書くことよりも読むことが増えた。

その内訳としては、まず河合隼雄である。
そしてヘルマン・ヘッセ、鈴木大拙。
そのた雑多にマンガや史料。

興味の流れとしては、「物語」の解釈について、
河合隼雄と村上春樹の対談を軽く読んでから、
明恵上人の本で河合の理解を深め、
仏教や東洋思想にまた傾倒した。

明恵はもちろん、宮沢賢治に繋がりを感じ、
また鈴木大拙と浄土真宗の思想を考えた。

ヴィクトール・フランクルを横目に、
いまはヘッセの車輪の下を読んでいるが、
次はシッダールタを読みたいと思っている。

大まかにはこのようなルートを通って、
「物語」や「意味」ということを考えながら、
特に興味をもち覚えていることを下に紹介する。

最後には宗教や信仰という問題を踏まえて、
日本における女体化コンテンツ?を語る。
具体的には、艦これとかそういうヤツ。

最近読んだブルーアーカイブのシナリオにも
触れて、楽しく考察して書き切りたい。


まず河合と村上の対談で河合が語ったこと。


一人ひとりのたま しいを深く傷つける前述のような傾 向が、個人主義を唱える欧米から生じてきたというアイロニーについて、ゆっくり考えてみなくてはならない と思います。個人をもっとも大切と 考える生き方が、個人をもっとも深く傷つける傾向を生み出しているの です。

現代の一般的風潮は、村上さんの書かれたことのまったく逆の、「できるだけ、早い対応、多い情報の獲得、大量生産」を目ざして動いています。そして、この傾向が人間のたましいに傷をつけ、その癒しを求めている人たちに対して、われわれは一般的風潮のまったく逆のことをす るのに意義を見出すことになるので す。

相対的に力を失っているのは、文 学という既成のメディア認識によっ て成立してきた産業体質と、それに 寄り掛かって生きてきた人々に過ぎ ないのではないかと、僕は思います。

これは書店員として既存の文学の産業構造にたより、
緩やかな降下を日々過ごしている者としては身近だ。
しかしそれは、必ずしも物語の凋落を意味しない。
これはヘッセの車輪の下にも良い文があった。

いまもむかしも変らない。そして科学的な人は、新しい皮袋のために古い酒を忘れ、 芸術的な人は、数々の皮相な誤りを平気で固守しながら、多くの人に慰めと喜びを与えてきた。それは批判と創造、科学と芸術、この両者間の昔からの、勝負にならぬ戦 いだった。その戦いにおいては、常に前者が正しいのだが、それはなんびとの役にも たたなかった。これに反し、後者はたえず信仰と愛と慰めと美と不滅感の種をまき散らし、たえずよい地盤を見つけるのである。生は死よりも強く、信仰は疑いより強いから。

科学のちからと、正しさの産物。
物語のちからと、信仰の産物。
この拮抗が現在にもある。

人間の生に善く作用するのが後者であるとすれば、
我々の近代史は進歩とは名ばかりの末法の歴史だ。

ここで、はじめに紹介しそこねたが、西部邁にも触れる。



懐疑と信仰という2つの徳のあいだで平衡をとる作業のなかで意味への志向が確かめられるというのに、相対主義は記号論的懷疑 を過剰に発揮して虚無へと転落する。そして、この虚無に恐れ戦いた挙句に、記号への信仰を過剰に「増席させて「事実の時代」、「技術の時代」そして「情報の時代」を軽信するに至る。この虚無と軽信 の身勝手な折衷は言論というよりも世論である。所与の標語に簡単にとびつき、そしてそれを簡単 にすてる、それが世論である。虚無と軽信というふたつの不徳を適宜ないまぜにしてその場しのぎを するのが世論の木質といえよう。この世論と抗う姿勢が前代未聞の水準にまで弱まったことこそ論壇 に悪臭がただよっていることの根本の原因なのだと思われる。

ここまで書いてみて、末法思想に興味がわく。
釈迦の正しい説法が機能しなくなる世の中とは、
本当にそのようになっているのではなかろうか。

宗教的規範の喪失が、世の中の混乱を生んでいることは、
西部の文をみればうんざりするほど明らかでもある。

いずれにしても、大きな信仰を失い、
科学的な正しさと損得にまみれた私たちは、
日々の暮らしの隙間に、小さな信仰を探して暮らす。

その対象は別になんだっていいのであるが、
大抵はその後ろにも誰かの利益や名誉欲が絡む。
それを手放しで信仰すると後で手痛い被害を被る。

さて、たとえ小さくても、善い信仰を行うためには、
対象に信仰に値する神性が備わってなくてはならない。

我々は仕組まれた「神的」なもののなかで、
真に神聖なものを探し当てねばならない。

あるいは、人造の「神的」なものに対して、
自らの内奥にある神聖を投影して、
それを信仰するのである。

後者は軽信や盲信と同じ位にあるが、
その対象には確かに神性が宿る。

これが現在の信仰のリテラシーなのではないか。
我々は信仰すらもコンテンツとして消費している。
それが、日本が誇るところの女体化コンテンツである。

…女体化コンテンツというと表現が悪いが、
他に言い表し方を知らないのだけれど、
要するに擬人化コンテンツである。
以下はお遊び程度に書いてみる。

今どき解説するまでもないので結論から述べるが、
この特定のジャンルにおいて、日本的な信仰の、
その最先端のカタチを見てしまうのである。
(擬人化はむしろ古典的でもあるが)

短絡的ではあるが、私は村上春樹からの流れを、
ブギーポップとその影響下にある作品に見ている。

ブルーアーカイブがそこに属するかなどの知識はないが、
Fateシリーズのような神話をベースとした美少女系の
シナリオ重視コンテンツとして興味を持っている。

これらの作品のキモは、神話のモチーフや人物が、
そのまま(主に)女性キャラクターに召喚されることだ。
これより全く気軽に、単なるキャラと神性の二重性を得る。

これはキャラクター自身の萌えや性的消費を許しつつ、
その神性は外部に接続された神話等で維持される。

要するにキャラは外部にある神性のよりましとして、
巫女として機能しているのである。
ここでも河合隼雄を引用したい。

このように極端な女性忌避の傾向をもつ仏教が最初に日本にもたらされたとき、 本邦最初の出家が女性たちであったという事実は、まことに注目すべきことである。これは、大隅も指摘しているように、日本の土着信仰においては、神のよりましとなるのが女性であっ たという理由からであろう。このことは、日本において、仏教がはじめはその呪術的な面が重 んじられて受けいれられた事実を反映していると思われる。 この頃までの日本においては、ノイマンの図式によるA軸上における女性の霊感的なもちろん原初的な様相をもったものながら、十分にはたらいていたのである。よりましとしての日本の女性たちは、ノイマンの図式に示されるほど分化したかたちではなく、M軸が相当に融合した様相をもって、霊感の機能をはたらかせていたことと思われる。土着の信仰 では地母神的な神が優勢であったので、このような様相を示したのであろう。 大乗仏教になって、母性原理の強調がはっきりと認められるが、その大乗仏教が日本に渡 来するときに、日本に古来からある地母神的な母性崇拝がその受けいれに一役買ったので、わが国の仏教においては、母性の尊重ということが強く前面に押しだされてきた

以上からも、日本人と巫女コンテンツの相性を感じられる。
神性と性的コンテンツの両立については、
めちゃくちゃ怒られるかもしれないが、
親鸞聖人の女犯の無告を思い出す。

要するに、信仰や神性を求めがちな現代において、
一部のコンテンツは実にトラディショナルな形態をもつ。
(それもシナリオの構造としてはかなりメタ的に)

これから、物語やフィクションは、より大きな力を持つ。
人々が渇望する信仰や神性にアクセスする回路として。

それは、これからの宗教や世界のありかたに、
意外と関係してくる動きなのではないだろうか。
なんてことを思ったりしている。


以下余談。

ブルーアーカイブの最新のシナリオについて。
テーマの「非有の真実は真実であるか」は、
まさにフィクションとも信仰ともいえる。

物語の鍵となる、死んだユメ先輩の手帳について、
結局ホシノは実物を手にすることはない。

その解決は自身の内側から提示されることになるが、
それが対話として演出されるのがシナリオとしての、
物語としての信仰を強化する力であり役割である。
(村上春樹の壁抜けもこのような作用である)

現実ではありえない、科学的ではない、正しくないことが、
それでも信仰することによってたち現れるようなこと。

それを肯定することは、宗教性の回復であり、
神秘の復活であり、人間性の修復でもある。

などということを考えたりする。


















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