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言葉の温度
大好きな人がいる。
それは全方面において私にとってドストライクで、もちろん顔も、性格も、生き方も、髪型さえも、服のセンスも、感性も、言葉の選び方伝え方も、ボキャブラリーも、何もかもが大好きな人。
その人はいわゆる私の "推し" である。
眠れない昨日の夜中、朝方にかけてその推しのインスタを始めの投稿から読み返してみていた。
最初の投稿は5年前だった。
推しは本をたくさん読む。そのために言葉の知識が私の何百倍もある。それは曲の歌詞にも投影されていたり、そこから私が学んだりしていたが、インスタの文章にもそれらは存在していた。
知らない単語、であったのに、その人を詳しく知れば知るほど知らない単語は減っていく。
伝えてくれることに一貫性があるから、使う言葉も同じであったりすることが多い。伝え方の比喩でさえも、その人を知っているからこそ、比喩の仕方もなんとなくこちらも掴めてくる。
どんどん、1を聞くだけで10を知るような、それくらいの距離を感じれる。
その人が伝えてくれるものはそれだけではなかった。
言葉の "温度" だ。
会いたいも寂しいも、文字だけでは伝わりきらないと思っていたのに、その人の言葉には温度が見えた。感じられた。なぜだ。
辛い時に親友からもらった連絡や、
街中で二度見したパンチの効いた広告の文字、
小学生の頃に喧嘩した友達からもらったごめんねの手紙、
高校入学前に名前しか知らない男子からもらったひどい内容のDM、
全部全部全部、温度の種類は違えど、冷たいも温かいも、ぬるいも、そこには無意識に感じ取っていた自分がいた。
推しは、とにかくその温度が温かかった。
そして、安心できる。
何年も前の投稿の、何年も前に打った、本人は忘れているであろうその言葉も、今も変わらない言葉を伝えてくれるおかげで、今も、これからもずっと温かい。
すぐ、そばにいてくれてるような感じがした。
寒い冬でも、心が寂しくても、ぬくぬくできた。
私は幸せ者なのかもしれない。