自ら選びとるというプロセスがもたらす学びの価値
先日、ナラティヴ実践協働研究センター(NPACC)のリスニングトレーニングを受けました。
NPACCのトレーニングは継続的に受講しています。それは、自己紹介でも触れているチームプロセスの探究にナラティヴが役立つと思っているから。
リスニングとは聴くこと(英語のリスニングじゃありませんw)。
もう何回になるでしょうか。正確な回数は定かではないのだけど、去年一年間で多分30数回は参加し続けてます(現在、4クール目が終わりに近づきつつあるところデス)。
なぜ、私がここに通い続けているのか?
多分、この学び合いのプロセスが好きだからだな・・・
ということで、noteの2回目は、何が私をこの場に惹きつけているのか?についてプロセスに焦点をあてて書いてみようと思います。
自分で逐語を起こす価値
まず、リスニングトレーニングの構造は、初回の面談(ペアで話を聴くこと)を録音する回と、語録おこし作業と、逐語検討の回、という3つのフェーズがあります。
対人援助職の皆さんにとっては逐語おこしは当たり前みたいなものだと思いますが、私はビデオを観て振り返るという経験はあっても、一言一句を書き起こすというのは、このトレーニングが初体験でした。
この逐語おこし。正直、めちゃシンドイ。メンドイ。
時間はかかるし、タイプミスの修正箇所は多発するし。繰り返し繰り返し聴く中で、話し手の話し方の癖や声を丸暗記してしまうくらいになります(だからか、この瞬間だけ、リピート受講したことを毎回後悔してます(笑))。
最初の頃は、なんとか手間を省きたくて、AIの力を借りて、音声入力ツールを利用していました。でも、その間パソコンは使えないし、最後までテキスト化してくれない確率高いし。やっぱり再生して戻して再生して戻してを繰り返しながら、愚直に自分でタイピングしていくのが一番効率的だし、意味があるんだ、と気づき、AIに頼るのを断念しました。
どんな意味があるかというと、このフェーズがめちゃくちゃ内省を促してくれる時間になるということ。
当たり前ですが、逐語をおこしている時は、自分の語りも死ぬほど聴き返す時間になります。
ハッキリ言って、自分の声を聴き返す機会はほぼ日常ではありません。これが自分の声なの?っていう違和感は回数こなすと慣れてきますが、一方、どのように相手の語りを聴いているのかについては、音声という何よりも正確なフィードバックが返されることで、グサグサと突き刺さってきて、何度やっても慣れるものではないです。
だけど。
誰かしらから指摘された時の嫌な感じとは違って、このフィードバックは、受け取ることが出来るのです(そもそも、自分なのだし)。
その音声を受け取めて、書き起こして、読み返して、じんわり考えて。
場合によっては、あちゃ~!ひぃ~!なんでこんな風に言っちゃったんだろう・・・とか、心の中で叫び、頭を抱えてしまうこともあったり(苦笑)。
そんな時は、一旦作業は中断(なので時間がかかるのだな)。
でも、次第に、自分で自分の課題に気づくというか・・・どこをどう変えていく必要があるのかな?という自問が自然と生まれ易くなっている気がします。
逐語は専用のフォーマットがあり、自分の語りを聴きながら書きながら、「その時何を感じていたか?」と「逐語を起こした後に改めて感じたこと、考えたことは何か?」についても、書き込んでいきます。
この「その時」と「今」の両方を振り返ることがとても重要なのだそう。
あらかじめ逐語を読んでおく価値
そして、逐語検討の当日を迎えます。
私の場合、トレーニングの前に予め逐語を読んでおきます。自分の逐語検討の日はちょっとドキドキ。そうでない日は、比較的気持ちに余裕があるけど、やることは同じです。
事前に送られてきた逐語を印刷し、ん?って感じるところ、この言葉はどんな意味で使ってるんだろう?って思うところ、そんな、気になる点があったら、マーカーを引いていく。そして、もしかしたら、ここはこんな風に伝え返せるかもなしれないなー、というアイデアが浮かんだら、それは付箋に書いて貼っておきます。
時間にすると概ね30分くらい。トレーニングが始まるまでの時間を、私はこうして過ごしています(時々忙しくて予習できずにトレーニングに突中しちゃう日もあるけど)。
この予習の時間は、結構大事な時間なんです。
文字だけで感じ取る印象と、後で音声と共に感じ取る印象と、どう違ってみえるのかみえないのかを考える材料になるから。
みんなと逐語を共同研究する価値
逐語検討は、自分の逐語を検討する場合と、他者の逐語を検討する場合と、2パターン。自分のだからとか、他者のだからということに余り違いはないと私は感じています。それは、逐語録となってみんなの前に置かれた段階で、個人の課題から私たちの共同研究の課題として存在することになるからかもしれません。
リスニングトレーニングそのものの時間は、1回およそ2時間半。これを人数分繰り返すことになるので、1クールおおよそ8セッションくらい。
毎回簡単なチェックインの後、まずは逐語作成者(つまり聴き手)が、どこをどう検討したいのか?その人自身が感じている課題提示から始まります。
つまり、自分からここを検討して欲しいというリクエストが出せるのです。
それを受けて、検討する問いそのものについてや、そもそもそこを検討したいと思わせたものは何か等、共に学ぶ仲間たちからの質問を確認します。
ここは、私たちがこれから共同研究するテーマについてしっかりと認識合わせをしておく意味あいがあると私は考えてます。
その後、それぞれが逐語録を手元で見ながら、音声を聴いていく。
音声はだいたい30分弱程度。ある程度のところまで聴いて音声を止め、そこまでで気になったところを検討することもあるし、セッション全体をまず全部聴いてから検討する場合もありますね。
個人的な感覚では、全体をまずは聴いてから検討する方が私は好き。
なぜなら、そのセッションはそのセッションとして一旦は成立しているわけだし、まずはその流れ全体を受け止めたい気持ちがあるから。その上で、どこでどう語りが動いていったのか、新たな可能性はどこにありそうか、みんなと探究したい、という思いがあるからかもしれません。
「ここで、〇〇という言葉について、もう少し聴かせてもらえますか?って問いかけられるんじゃないか?」とか「ここで、△△と伝え返すことも出来るかもしれないね?」とか。みんなで、あんなことも出来るね、こんなことも出来そうだね、と、逐語録を真ん中に置いて話し合っていきます。
声のトーンが加わることで、逐語の文字を読んだ時には感じ取れなかったものも伝わってくるし、大きく印象が変わることもある。自分が考えていたことと同じポイントをお話する方もいれば、違うアプローチを提案する方もいる。自分とは違う解釈をしている方の提案があると、なるほど!そういう捉え方もあるんだな、という発見があるのです。
この新たな可能性をみんなで探究していくプロセスが本当に面白い。
こう聴くべきである、という正解的なものは提案されません。
あんな可能性もこんな可能性もある。その中で、自分が聴きやすいこと(逆に言えば聴きにくいことの存在も)や、捉え方の枠組みにも気づいていく。
たとえ自分が逐語の当事者だとしても、指摘された感は余りなく、客観的に受け取れている気もします。
それは、人を対象として指摘や批判批評がなされないからかも。
誰かの正しいという一方向に矯正されることなく、フラットな場で他者との相互作用によって生まれた多様な可能性から、自ら次の方向性を選び取る。あーこんな可能性もあったんだー、そうかーこういう風に受け応えればよかったのかー、次はこうしてみよう~!と、素直に考えることが出来るのは、本当に貴重な時間だと思ってます。
学びの主体性を促す
自己内省、課題の自己認知、共同研究からの自己選択。こんなプロセスたちが、私をこの場に惹きつけているのかな・・・。
大切なのは、自ら選びとるというプロセス。
所謂「愛あるフィードバック」という考え方があるけれど、そのようなやり方でなくても、否、そのようなやり方でない方が、自分にしっかりと向き合って自分を受け止めることが出来るのではないか。別に褒めてもらう必要はないのかもしれません。
結果として、私自身も、逐語への事前の取り組み方も変わったし、何より自分で自分の聴くことに対する成長をほんの少しずつでも感じることが出来て、なんだかとっても楽しいわけで。その楽しさが継続のモチベーションになっています。
チームプロセスの探究という観点でも、このリスニングトレーニングの体験は、ナラティヴのスーパービジョンと共に、これからの私のファシリテーションにも影響するでしょう。
ということで、2回目にして、だいぶ長くなってしまった・・・
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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