【読書メモ】『ものがわかるということ』養老孟司①第一章 ものがわかるということ
写真では外していますが、本の帯にあった、絵本作家ヨシタケシンスケさんのかわいいイラストとオススメの言葉に吸い寄せられて購入。
ヨシタケシンスケさんの絵本『もうぬげない』が大好きです…。
今回は、そのヨシタケシンスケさんの推しということで読んでみました。
発売3ヶ月ですでに8万部突破とあるので、色んな方が書評は書いていると思いますが、こちらでは相変わらず私的な感想を残したいと思います。
第一章 ものがわかるということ
「言葉で伝えられない世界もある」の中で、養老さんが近年SNSなどによって軽々しい言葉があふれている状況と、言葉だけにとらわれることの危険性について話します。
このnoteに言葉をつらつらと書いている私はドキリとさせられます。
多くの本を執筆してきた養老さん自身、言葉で伝えられない世界で学び仕事をしていた、ということで大学で携わった解剖学の実習について話しています。
死体をいじる、という、非日常な場面のはずなのに、勝手に素手で触った死体の感触を想像してしまうのは私だけでしょうか。
亡くなった人に触れる、あの感触。
少し前まで呼吸をしていた、生き物的な感覚が急に遠のいていく感触は、私にも何度か経験はあります。
その死体を切り開き解剖するというのは、私にとってはるかに別世界で共感が難しいのですが、死が身近に感じられなくなった今の社会では、死体に触れて死を感じるという体験さえ他者に伝えるのは容易ではないと思えます。
さらに養老さんは脳への入力は五感を通して行われるとして、身体を伴った理解や学習について話します。
次に、「知るとは自分がかわること」「学ぶとは自分の見方がかわること」の中で養老さんは、前の自分が死んで新しい自分に生まれ変わる。それを繰り返すのが学問だ、と述べたあとにこう書いています。
これ、すごく大事だと思いました。
前回の読書メモ『音楽と生命』坂本龍一・福岡伸一にも書かれていましたが、生命は「ああすればこうなる」というアルゴリズム的な動きをするものではない。生命はシミュレーション通りにはいかない。その欠損が出たときの可塑性や柔軟性こそが「生命」であると。
きっと、その「生命」に相対するとき、私達には空白や余白が必要なんですよね。
養老さんは更に、都市化が進むことで、現代人は偶然を受け入れることが難しくなってきていると話し、子どもの存在についてこう述べています。
そして、不合理な存在を相手にしたがらない大人たちの話へと話題は移り、第一章が終わります。
ほんとに子どもは生命力のかたまりです。予定どおりに行動しないことはよく分かります。
子どもを相手にすると、自分の気持や予定を「あきらめる」ことが上手になると感じます。
子どもが「こう動くだろう」という予想の上に立てた計画は、だいたい崩れます。
子どもと直に接する時間が少ないうちは、なぜこうなるんだ ! と腹も立ちます。
でも、実際に触れて、育て、身体を伴って子どもについて学んでいくと、想定外の子どもの動きや言葉、想像力、それこそが「生命」なのだと強く感じます。
そして、そんな生命のかたまりに対応するには、頭と心に一定の空白が必要だというのは、本当によく分かる気がします。とても腑に落ちる養老さんの言葉でした。
なんだかまとまり無く書いてしまいました。
次は第二章についてメモります。
今回はこのへんで。