見出し画像

日常を充実させる魔法の言葉、「道草を楽しめ」

ようやっと日常パート。
旅行やら出張やらで岡山にずっとおらず、それはすなわち隠れ家に行けず、こうやって書くこともできなかったというわけです。特に体調が悪かったりやトラブルがあったりということではありません。ご心配おかけしたみなさますみません(&本当そんな人がいるなら、ありがとうございます!)。


その間に、noteが一つバズってました。「新卒の教科書」的なやつ。あれ、ほんとに新卒の子に向けて書いたやつを、個人名とか企業が特定されるやつだけ消して公開したやつです。なので、まさに一人のために書いたやつが多くの人に読まれたってやつですね。実際効果あるんですねこれ。

で、おもしろかったのがnote→Xはいままでよくあったのですが、今回はnote→はてなブログ、でした。noteやXでは概ね肯定的な意見が多かったんですが、はてなブログは酷かったみたいですね。「みたい」って言ってるのは怖くてあまりちゃんとみてないからです。いやですよ、どこの誰かもわからない人の強い発言で凹むの。まーこういう時は「ちゃんとした人はポジティブに捉えてくれてるし…」と自分を慰めるしかないですね。


こういうバズみたいなのが起こると、アドレナリン的には楽しいわけですよ。「おお、こんなに読まれてる!」「この人までコメントを!」みたいなミーハーな心でワクワクSNSを監視。いいやつを見つけるたびに引用リツイート。

でも、これ持って3日なんです。
世間もですし、自分も。

「バズりて〜」って時はそんなこと考えないんですが、いざそうなってみると「もうええって」って割とすぐなります。言葉は悪いですが、どうでもよくなります。

この話、バズのようなSNSに限定した話のようにしてますが、これ別に成功とかでも一緒です。地面師の中で、とある大きい企業の部長の人が成功を掴み取ってぱーりーないするシーンがあるんですが、あれ別に3日くらい経ったらどうでもよくなるのによく頑張れるなぁ、みたいな感想になります。

まぁメタ的にそれがわかってても、渦中を楽しむのはありなんですけどね。にしては賭けてるもの(と思い込んでるもの)が大きすぎですね。所詮、金。所詮、成功、です。

ついでにいうと旅行とかイベントとかの特別な感じも楽しいけど、その楽しみのために生きてるわけじゃないんですよね。それも余韻に浸りつつ過ごせるの長くて一週間でしょ。


そんなに冷めてて楽しいの?

という声が聞こえてきそうですが、いや、違うんですよ。そうじゃなくて、特別なものを手にいれる、体験する、そういうことじゃないところにあるんですよ。つまり「日常パート」が最重要なんです。

バトルジャンキーだった浦飯幽助がラーメン屋をやるように、孫悟飯が普通に高校に通うように、漫画で誰かと戦う理由は、本当は日常を守るためなんですよ。(ただ、この2つは当時ジャンプで全く受け入れられなかったですね。でも著者の冨樫義博先生と鳥山明先生は、明らかにここを狙って書いたと思ってます。当時小学生だった僕も「もっと強い敵を!」って思ってましたが、今読むとこっちの方が断然深いっすね。すでに辿り着いてたお二人ほんとすごい...。)


で、「日常パート」。
日常24時間をずっと楽しいことで埋められたら、それが最強なんです。そのために、「成功」を利用する。たとえば資格試験。受かったら人生が始まるんじゃなくて、今まさに、その試験に向けて日々勉強し、受かった時の嬉しさを想像し、学ぶこと自体を楽しんでいる、今この瞬間こそが重要なんです。同じ勉強でも、その勉強が資格「合格のための手段」なのか、まさに自分の大事な「人生の充実した時間」なのか、捉え方が違うだけ。だけど、それで確実に人生は豊かになる。そして老けなくなる。ほんとに。笑顔増えるし、周りに人が集まるから。


年齢をある程度重ねて、まー世間で言うところの「成功」みたいなやつもいくつか体験したんですが、そのときに喜びって3日くらい。そしてそこから数年経って思い出すのは、一緒に頑張ってた仲間と深夜誰かのミスをゲラゲラ笑いながら、いいよいいよって慰めながら、みんな再び真剣な顔でデスクに向かう姿。そういうことばっかりなわけです。成功した瞬間や誰かからの賛辞を受けた瞬間は思い出になんてなってない。

ジン=フリークスという哲学者はそのことを下記のように表現しています。

オレはいつも現在オレが必要としているものを追っている
実はその先にある「本当にほしいもの」なんてどうでもいいくらいにな

(中略)

オレが一番嬉しかったのはずっと願ってた王墓の「真実」を目の当たりにした事じゃなく

一緒に中に入った連中と顔を見合わせて握手した瞬間だった
そいつらは今も無償で役員をしながらがオレに生きた情報をくれる
この連中と比べたら王墓の「真実」はただのおまけさ

大切なものは
ほしいものより先に来た

HUNTER×HUNTER32巻 pp161-163


くはっ。
正直に言いましょう。初めてこれを読んだ時は、「何言ってんだこいつ?」って思ってました。矛盾だらけの発言だし、結局お前は何がしたいんだ?と。

ごめん。愚かでした。
今は、「たったこれだけの発言で、人類の叡智を伝えることができるものなのか...」と恐れ慄いてます。すごい。このジンさんと同じと言ってしまっていいかはともかく、今はすごく気持ちがわかります。これを伝えた彼の気持ちが。

これ実は、彼が息子に伝えたと言われてる発言なんです。
彼の息子は未だ何かを成し遂げたわけではない、成功したわけではない。そういう人に伝えた発言。ジンさんの哲学は、ある程度「成功」というものに触れた人にすごく刺さる発言になっています。一方で、まだそこに至ってない人はどうなのか。がむしゃらに頑張る今を肯定してほしい、応援してほしい、鼓舞してほしい、そんなふうに考えている人もいます。その人に合わせて「死ぬほどやれ、そうすると成功するぞ」とアドバイスすることは簡単です。でもそうしなかった。

「道草を楽しめ 大いにな」

そうただ伝えた。
く〜めちゃくちゃかっこいい。この言葉に全てを込めて。伝えたいこと、伝わってること、伝わらなかったこと、そんなことを全てこの10文字に含めて。


今この瞬間を疎かにして、手に入ってないものだけを羨んでしまう。違うんですよ、今まさにこの道中こそ、日常パートこそ重要で、その日々を道草を楽しみながら進めばいいんですよ。それはあるときは、がむしゃらにやることかもしれない、真剣だからこそ誰かとぶつかることかもしれない、悔しいことかもしれない、泣きたくなることかもしれない、そういう渦中にいて、再び自分の足で立って歩いていけるのは、「道草を楽しむ」って信念を持ってる人なのかもしれない。そんなふうに思います。


「地面師たち」がおもしろかったので蛇足だと思いつつも話を進めると、あれほど「非日常パート」だらけの人生も珍しいなと。いや、もちろんエンタメとして成り立たせるためにってのはあるのは大前提なんですが、すっごく作品に入り込んで、まさに当事者の一人のようにこっから話しますね。

不動産詐欺をするにあたって、獲物を決め、準備をする。そのすべての準備が、およそ日常からは遠いもの。なりすましを育てたり、書類を偽造したり、嘘で塗り固められた交渉をしたり。どれもうまくいったら相当アドレナリンが出る「非日常」。とてもエキサイティングで楽しい。さらにそこに復讐だったり、国家権力だったり、裏切りだったりが入ってくるとアドレナリンはドバドバ。やめられない。

んで、その人生はその人生でいいと思うんですよ。ある意味「道草を楽しめ」も有効に機能する。ただ、「非日常」を重視するあまり、「日常パート」がゼロなのが最大の問題なのではないかなと。こういう生き方をしていると生活感がなくなってきます。部屋とか打ちっぱなしでいいし、ベッドと冷蔵庫があればいいし、滞在時間は少ければ少ないほどいい。倒れ込んで寝るだけ。でもそれは「生活」ではない。ある種それを犠牲にしているからこそ成し遂げられるんですが、それでも今が特別でそうなのと、そもそも戻る所がないのは全然違うわけです。

年齢を重ねると、家族のことや、健康のことや、過去だと切り捨てて突き進めたものの比重が大きくなってきます。でもこれは、戻るべき「日常パート」が充実してきたとも言えるわけです。仮にこの「日常パート」全てが、「うわ〜いいな今」みたいな時間で埋められるとしたらどうでしょか?

それはアドレナリンドバドバの非日常より価値が低いものですか?
目指すべきは成功ではなく、季節の変わり目に気づけるような生き方なのかもしれないなぁなんて思いました。



「♡」は、誰でも(noteにアカウントを作っていない方でも)押すことができます。この投稿を「いいな」と思った方は、気軽に押してもらえると嬉しいです。もちろんフォローも嬉しいです!

こういうエッセイが好きでしたら本もどうぞ。
頭の中がうるさい。でも、それでいいのかもしれない。






ここまで見てくださるなんて...ありがとうございます!! SNSに書かずnoteだけに書くことも多いので、フォローしておいてもらえると嬉しいです!