あをによし ヤマト1マイル歴史散歩【丸山古墳】
11月も半ばになり、日の出は遅く、日の入りは早く、
短い一日が一ますますあっという間に終わるように感じる今日この頃。
2週間近く鼻水やらに悩ませられ、どうやら季節の変わり目(寒暖差)アレルギーだったよう。
ここ数年春と秋に同じような症状が出ているので、きっとそうなのでしょう・・・
症状も治まってきて、残り少ない年内のお休み計画がこれまた悩ましい。
そんな貴重な休み、役所用事を済ませ近場歩きをした。
はい、オソト好きなので歩かないと死んじゃいます(笑)
ずっと気になっているところへ。
近鉄線の橿原神宮前と岡寺駅の中間に位置する。
神宮前から行きました。
その丘は国道169沿いにあり、丘の中腹には赤い旗がなびくお寺がある。
なかなか謎めいています。
なぜなら・・・
この丘は・・・
古墳だから。
お寺脇の小道を上ると、そこは前方後円墳の上。
丸山古墳(五条野丸山古墳/大軽丸山古墳/見瀬丸山古墳)
三つの町にまたがる超巨大古墳。
今年の1月にも訪れていたが、記事にはしなかった。
その時はキレイに草刈りがされていて、ここから正面に見える後円部まで
すんなり歩けた。
今回は、流石のワイルドなワタクシもちょっと・・・
ほら、アレにひっつかれたり、ヘビが出たりしたら大変なんでね。
j
ということで、一度丘を下り、ぐるっと回って後円部へ。
古墳の東側を回る。
住宅街を通り古墳の南側に回ると、ちょうど後円部の森に出る。
段々を上る。
ちょうど草刈り隊が作業された後で登りやすかった。
そう、奈良県下では最大の前方後円墳、国内では6番目の大きさという古墳!!
なんともいえない憂いとともにいつも眺めている。
こんな日本有数の巨大な前方後円墳、一体誰が被葬者?
石室内には2つの家形石棺が残されてあったということから、
当時の力のあった夫婦といえば、天武天皇と持統天皇。
こちらの合葬陵という説もあったようだが、現在は野口王古墳がお二人の
合葬陵と認定されている。
その為、丸山古墳は天皇陵指定を解かれ、後円部上段の一部が陵墓参考地として残り、そこは立ち入り禁止だが、その周りはこうして自由にウロウロできるのです。
様々な調査をされているようだが、未だ被葬者は謎のまま。
しかも明治時代にウィリアム・ゴーランドも調査しており、出土品の多くが
大英博物館に保存されているというではありませんか!?
この方の話になるとまた別の記事になりそうなので・・・・
そんな内部、花崗岩製の石室正面の巨石の重量は推定100トンを越え、
石舞台古墳のものよりも大きいものという。
さてはて、どなたが眠っていたのやら・・・
夫婦合葬とすれば、欽明陵(堅塩媛と)であった可能性もあるという。
一つ興味深いのが、蘇我稲目説。
それはこの近く、橿原神宮前駅の東にある丈六交差点あたりから明日香に向かうエリアは、蘇我氏の聖地とも言える土地が続く。
そこからこの古墳はすぐそこ。
被葬者どころか、名前すらあやふやなこの古墳。
想像と妄想は果てしなく・・・
森の周りをウロウロしていたら、サワサワという音が・・・
見ると、ヘビ!
ゆっくり動く小さいそれは、森の中へ。
マムシ?
マムシを見たことないが、今画像チェックしたら、おそらくそう。
なんか逢うような気がしたのです。
最近色々予感が当たる。
ということで、これ以上ウロウロするなというお告げで退散。
お邪魔いたしました。
西側に出る。
国道に面した西側の一部に居住跡が。
そういえば、以前、天理の商店街の酒屋さんの女将さんとお話していて、
橿原の話から、女将さんのお姉さんが丸山古墳の麓に住んでいたが、
古墳整備で退去したという話を思い出した。
あまりに身近すぎる歴史、そんな奈良らしい話だと思ったのでした。
長い間人々の生活の一部になっていたり、掘り起こされ荒らされりされながら
やっと静かに佇むことがてきている。
忘れられた存在になりつつあるが、そこに確かにある古の石と土の営みを見た。
前回は数で勝負の新沢千塚古墳群を歩いたが、今回は大きさでは奈良一!
どちらにしても、古代妄想に駆られるヤマトの歴史散歩でした。
【今年の一月に歩いた時の画像】
憂いも感じるが、古墳パワーも絶大。
そんな古代のエネルギーを受けれたらいいな。
【今日のおやつ】
丸山古墳の目の前にある洋菓子店の『丸山シュー』
いただいたサポートは古道活動に使わせていただき、歩いた記録をお伝えしたいと思っております。よろしければよろしくお願いいたします。