あをによし ヤマト1マイル歴史散歩【益田池堤、鳥屋ミサンザイ古墳、新沢千塚古墳群】
世間の連休明けのお休み。
秋の企画展が続々と公開が始まり、ワタシもソワソワ。
カレンダーと睨めっこ。
いつにどこを観に行くか・・・
この日は近場の美術館へ行こうと思っていたが・・・
待てよ!?連休明けの火曜日、もしやと思い調べたら、やはり振替で休館。
さて、どうしよう。
ずっと気になっていた、神宮の西側で明日香とは近鉄を挟んで反対側になる方。
バスでも何度も通るのに立ち寄ったことがなかったエリア。
これまたいろいろ渋いが興味深い遺跡、史跡がゴロゴロしていますのよ。
ということで歴史散策に変更。
橿原神宮前駅の西口からスタート。
駅から真西に続く道路沿いに歩く。
正面は葛城山系。
白橿町、昭和のニュータウンといった感じで、とても綺麗に整備され静かな住宅街。
この『橿』、関東では馴染みのない字で、ワタシは橿原市に引っ越すまでは聞いたことがなかったと思う。
カシといえば『樫』を思い浮かべる。
西に向かって歩く。
暑い。
程なく現れる高取川にかかる橋を渡る。
まず、今回一つ目の史跡。
【益田池堤】
なんぞや?
時は平安時代の話しでございます。
弘仁13年(822)に和州(大和)監察の藤納言と紀太守末らが肥沃の土地が開墾されていないのを嘆き、日照り干ばつの時のことを考えこの恵まれた土地の開拓を奏上したところ、すぐにその許可が出たという。
その経緯や工事の内容の碑文に残っているとのこと。
その工事をあの方が讃岐の満濃池(灌漑用ため池)の改修に関わっていたことから、この益田池も監修指導したそうです。
この高取川を堰き止めて、堰堤を築いた。
土木工事まで采配、どれだけ多才だったのか・・・空海師匠!
完成に伴い空海は天長2年(825)9月にその碑文を書いている。
その碑銘の文字が・・・
ちょっと衝撃的です。
ご興味のある方はググってみてください。
ただ、どういう様子だったかは現在の状況からはわからず
どのように写真を撮っていいのか・・・・難しい。
益田池堤前の県道を西に進む。
道沿いに、こんな石碑が。
【築坂邑】
なんぞや?
時は神武天皇の時代でございます。
とっても昔です。
神武即位前紀によれば、カムヤマトイワレビコ命(神武天皇)東征のとき、
「大伴氏の遠祖」日臣命が、大来目(記では大久米命)を率いて山を踏み分け、
宇陀までの道を通す。この功により道臣(みちのおみ)の名を賜わる。
記中巻、神武即位の翌年、道臣命は築坂邑(橿原市鳥屋町付近)に宅地を賜わる。
そんな場所でございます。
復習が追いつきません・・・
また県道を西に進むと、今度は鳥屋という町になる。
程なくすると左手に出てくるのが
【鳥屋ミサンザイ古墳 宣化天皇陵】
古墳時代のお話でございます。
第28代天皇の陵。
69歳で即位ということで、3年だけの在位であった。
ただ、実際の被葬者は・・・不明というのが古墳の謎。
池から北側を見ると・・・
また県道に戻り、さらに西へ。
ずっと気になっていた
【新沢千塚古墳群】
なんぞや?
こちらも古墳時代の話しでございます。
小さい古墳が密集して造営された群集墳で、全国的にも大規模で日本を代表する一つとのこと。
4世紀から6世紀にかけて造られたものとのこと。
約600基の古墳が確認されている。
それぞれに名前はなく、〇〇号墳と表記。
被葬者も不明。
どうしてこのような形状の古墳群になったのか
納得いく解説は見つけられなかったので、これまた謎のまま。
近くで見るとポコポコ具合がわかりにくい。
いくつかポコには号数と埋葬品の案内板があり
その中で、先日、橿原考古学研究所の博物館で観た素敵な耳飾りの
出土した古墳を確認できた!
そして、126号墳はぺルシャ地方や中国、朝鮮半島からもたらされた豊富な副葬品が出土したことで有名とのこと。
シルクロードを渡ってこのヤマトにやってきたヒトとモノ。
やはり、国際色豊かに賑わっていたことがうかがえる。
古墳群の丘をぐるぐる周れる道があるのだが、途中で切れているような
ちょっとわかりにくい道も多く、行ったり戻ったり。
公園の一角あるシルクの杜というスポーツ施設
歩道橋から反対側へ。
暑い暑い〜
隣接の直売所に避難。
野菜とお花を購入。
さすがに暑さに参ってきて、今日はこれにて退散。
ここまで駅から直線距離で2キロ弱。
これでもかなり掻い摘んだ史跡巡りでした。
ちょっと南に行けばあの有名な益田岩船や
新沢千塚古墳群のすぐ近くには桝山古墳など、まだまだ遺跡、史跡がゴロゴロ。
ほんとにヤマトは歴史ゴロゴロ。
ということで、ちょっとそこまで史跡散策は、やはりモリモリになりました。
【今日のおやつ】
帰りに、いつもの甲子屋さんでお月見団子を購入。
??
これがお月見団子?
初めてみるタイプ。
そして見事な中秋の名月でした。