ちやほやされることについて考えたり、話したりしたお話。
私の命名した「ちやほやされないと死んじゃう病」というものがある。
昔働いていたところのお局がそうであった。慣れているから通常の仕事はこなせるが、全く大局観やマネジメント視点のないままリーダーポジションにおり、部署は管理不足で混乱しまくっていた。しかし彼女は実にお姫様体質で、少しでも違う意見を言うと大きなため息をつき機嫌を損ねるので、彼女が発言するとスタッフたちは一様にみな「その通りですね!」と迎合した。彼女が「今日暑くない?」と言うと誰かが「温度調節しますね!」と席を立ちあがってお局の真後ろにあるエアコンのコントローラまではるばる移動して調節する始末であった(余談だが私はそんな人に一切迎合しない気を遣わない質なので全面対決となり、最終的に部署を追い出した。この話はいつか書けたら)。
他にも、都会の大学に進学してからそれに罹ってしまった友人もいる。彼女は中学・高校まではごく普通の、かわいらしく勤勉な個性的な優等生、といった感じで、独特の感性が面白く大好きだったのだが、東京の某超一流国立大学に進学後久々に会うと、やれオシャレ地域にある高いマンションに引っ越しただの、有名人の○○と飲んだだの同じジムに通っているだの、聞いていないのに自慢を始め「すごい」という言葉を周りから引き出して喜ぶようになっていった。社会人になって名だたる企業での高給取りになってからはその傾向はさらに加速し、SNSに高いレストランでご飯を食べただの趣味を始めるために珍しい楽器を買っただの友人たちとフェリーを貸し切っただの投稿しては、謎の信者たちが「すごい!」「さすが!」「やっぱり違いますね!」と謎の迎合コメントが大量につくという独特の祭りを開催するブランディングに余念のないキラキラ女子になり、昔からの彼女を知っている私は違和感がぬぐえず、学生時代は仲が良かったはずなのだが、すっかり疎遠になってしまった。
私はちやほやするのもされるのも、好きではない。
ちやほやされるのは居心地が悪い。本当に頑張ったことを、その努力と真価を知っている人に認められるのはうれしいが、上っ面だけみて、吹いたら飛んでいきそうな言葉で称賛されても薄ら寒いだけだ。誰かを殊更にちやほやするのも、送別会とか歓迎会とか新入りさんの気持ちをほぐすためだとか、理由がない限りしない。自分の上司に上司として先輩として敬意を払うとか、誰かの常人にはない技能に敬意を払うとか、人として普通の礼儀を尽くすということは当然だと思う。 誰かの努力や功績を尊敬したり、称えたり祝ったりすることもいくらでもある。でも、「上司だから」「○○社に勤めているから」「○○大卒だから」こぞってちやほやするというのは変な話だと思う。さらには「特定の誰かが何か発言したらちやほやするのが当然」という場の雰囲気は、ひどく居心地が悪いものだ。
最近、テレビやネットの記事で、そのように、実力のわりにちやほやされすぎてるなあと感じる芸能人がいて、メンタルの強い友人に愚痴ってみた。年齢のわりに落ち着いた芸能人で、数年には一度はいるよねという感想なのだが、常にメディアでは「天才」「さすが」などの持ち上げ感が半端ないのだ。国際的な賞を多数受賞して今の日本の芸能界を牽引しているとか後続を育てているとかいうこともなく、芸能界に新風を吹かせたという訳でもない。どう見ても過剰なageなのだ。「なんか最近、芸能人○○のageが目につくなあ。ちやほやされすぎてて、違和感ある。それほどでもないよと言いたくなる」。こういうことはあまり人に言いづらい。たいていの場合、「嫉妬」で片づけられるからだ。「うらやましいんでしょ、憧れるんでしょ。自分もちやほやされたいんでしょ」と。確かに、スルーできない時点でどこかうらやましい部分があるのかもしれない。そういわれると決して否定はできないのだ。
メン強系友人は本を読みながら、ふーんと私の話を聞き流して、こう言った。
強「そうやっといたほうが都合がいいから、周りがバカにしてるんだよ」
私「え、バカにしてるって、何を?」
強「その芸能人○○を。」
はっとした。
実力以上にやたらと褒められたときのあの居心地の悪さ。そうだ、あれは自分がバカにされていると感じて不愉快なんだ。「こう言っておけばあなたは喜ぶでしょう?」と、さして本心でもないことを言ってコントロールしようとする態度が不愉快なんだ。だから、人にもしたくないんだ。
そして、ちやほやされて喜んでいる人を見ると、ちやほやする人される人両方の浅ましさが見えて、不愉快なんだ。心からその芸能人〇〇を尊敬しているのではなく、そうやると何か自分にメリットがあるから、仕事がうまく回るから、(無意識にも)表面的にそう言ってるだけ。その茶番。ちやほやされてる人は、憧れる対象でもなんでもなく、個人として尊重されてさえない。属性を利用され、個人としては軽く扱われ、バカにされてるのだ。
そうすると、ちやほやされて喜んでいる人というのはなんて空虚なんだろう。お局も、疎遠になったあの子も、芸能人の〇〇も。自分を自分で認められないから、周りに称賛を認める。そしてちやほやされて喜んでいるけれど、そこに誠意のある信頼関係や敬意はない。まともな人は距離をおいてしまう。寄ってくるのは「そうやって適当に褒めて持ち上げることで自分にも利のある人」だけだ。素敵なステータスを失えばすぐに、いなくなってしまうだろう。
承認欲求。もとは心理学界隈の言葉だと思うが、ここ数年、自己啓発系界隈でもよく聞かれるようになったキーワードだと思う。
自分に自信が持てないときはある。私も大体いつもない。でもそんなときにもやはり、人に承認を求めるのではなく、自分で自分を褒めて認めたい。自分をバカにして他人からおべっかというバカにした行為を引き出すのではなく、深く確固とした自信を持ち、堂々と生きていく人間でありたいと思う。