クリエイティヴは容易に語れない
カメラを持ち出すと、雨が降る。
雨には雨なりのカメラの楽しみ方はあるわけだが
目的がそうでない場合は萎える。
『日本のクリエイティヴィティは終わってる』
どこかのカメラ界隈で聞いた台詞である。
この言葉に異常な違和感を抱いた。
理由はたったひとつ。
[外的要因]に対してクリエイティヴを預けているからだ。
そもそも、クリエイトとは。
英語では[創造する]を意味し
仏語では[楽しませる]を意味する。
どちらも能動的な動詞だ。
日本国内においては英語の[創造する]ことを指すことがほとんどだろう。
[創造]の意味をgoogleに尋ねてみると
『最初に作り出すこと。』
という回答が返ってくる。
つまり、ほぼ不可能なのである。
個人的には[クリエイティヴ]やそれに付随する言葉には取り憑かれないようにしている。
カメラで撮影された静止画、動画、その双方においてはあくまで[キャプチャー]されたものであり、自分は露出や画角を決定し、レリーズを押し込むオペレーターなのである。
そこにクリエイティヴなんてものは存在しない。
また、カメラの歴史から見れば、その成果物はほとんどの場合がもうすでに先人がチャレンジしていることの焼き回しにしかならない。
[最初に作り上げる]ことはほぼ不可能なのだ。
じゃあクリエイティヴを諦めるのか?
と言えばそうではない。
確かにコンプライアンスやモラル、世間の目など、制約の多い世の中になってきている。
外的要因で制限がかかることにいささかの異論もない。
しかしながら、それは受け止めなければいけない事実であり、その制約や制限という檻の中で自分に何が出来るのかを考えることこそ、現代にしか出来ないことである。
そもそも、自由という言葉自体が檻であり、鎖なのだ。
いわゆる[オリジナリティ]や[表現]なんて言葉がある。
そんなものを駆使して、クリエイトしていくんだと思うが、そもそも静止画に出来ること、動画に出来ることについても考えを深めなければならない。
場合によっては時代背景とカメラの在り方について学ぶ事も必要だ。
撮るチカラは観るチカラで養える場合がある。
個性で作品を作ろうとするといずれ破綻を来す。
人と違うことを個性と言うならば、それは社会的に誰だって持っているからだ。
カメラで言えば、露出や画角、などの共通するものがある。
誰にでも持ち合わせられることの出来る、絶対にブレないものだ。
この土台が安定していれば、自ずと個性はその上に繁栄されていく。
個性に取り憑かれると、手グセが治りづらくもなる。
ドンドンと狭くなり、凝り固まっていく。
それが一番危険な状態だ。
とどのつまり何が言いたいのか。
誰とでも共有し合えるコトやモノをいかにたくさん持てるかは非常に重要なことであり、そのとある組み合わせが化学変化的な爆発を起こして独自な個性として出現するのではないだろうかということである。
ということは、クリエイティヴの所在を他者や環境に委ねるなんてのは非常にもったいない。
世間にないモノを考えるより、自分の中に何があるか、社会的意義のあることなのか。
好奇心や快感原則に従って人生の荷物を増やしていくことがクリエイティヴの突破口なのかもしれない。