ミスを指摘されても、そんなに落ち込まなくても良いと思う理由
先日の note で、自分のミスや至らない点を指摘されると、自分の全人格を否定されているように感じることについて書きました。
実はわたしもかつては敏感で傷つきやすい人でした。
ミスをしたらどうしようといつも心配していました。
また、間違いを指摘されようものなら、問題を解決するために努力するのではなくて、どうやってこの状況を切り抜けようかと必死になりました。
そんな具合ですから、さほどない能力を発揮することもできませんでしたし、何かにチャレンジするという勇気など持てませんでした。
しかし、師とも呼べる人との出会い、そしてミスをしても助けてくれる人たちの存在、そしてミスは避けられないということを理解できるようになって、少しずつ感じかたを変化させることができました。
今では、自分のミスに対しても慌てずに対応できるようになりました。
ミスを指摘された場合も、相手に損失を与えていたり、感情を損ねた場合にはすぐに謝罪し、どうやって方向転換すべきかに注意を向けることができます。
以前だと、落ち込んでしまい「もうダメだ・・・」とうなだれてたので大きな変化です。
さらに、同僚や後輩を指導するときも「ミスはミス、切り換えて行動しよう」というスタンスを保てるようになりました。
結果、お互いにストレスを減らせているように思います。
さて、相手のミスにしても自分の失態にしても放置することは良くありません。
しかし、問題を解決するためであっても言うべきでないフレーズがあると思っています。
それは「そんなので良いと思っているのか」という言葉です。
この質問は答えようがありません。
自分では良いと思ってたと答えても、良くないと思っていたと答えても、ならどうしてそんなことをしたんだと追求されます。
まさに相手を詰めるために準備された言葉、それが「そんなので良いと思っているのか」というフレーズなのです。
いつもこんな優しさに欠けたフレーズで詰められていくと、自分のことを好きにはなれないでしょうし、他者にも厳しくなるのではと思います。
結果には原因があります。
それで「どうしてこんな結果になったと思う」とか、「今回の悪い結果を引き起こした要因は何だろう」と考えるほうが建設的です。
もしかすると、自分の行動に大きなミスはなかったかもしれませんが、外部的な要因、例えば天候や偶発的な事故などの影響を受けて、思いもよらない悪い結果が生じることがあります。
そういったことを分析しながら、次回同じようなことが生じた場合、自分にできることはなんだろうかと考えることのほうが良いのではないでしょうか?
悪い結果のすべてが自分のせいとは限りません。もちろん80%くらいは自分のせいってこともありますが・・・
そもそも、良いことが起きたときは「皆様のおかげです」って言うのも不思議です。
だったら、悪いことが起きたときだって「皆様にも責任ありますよね、一緒に解決していきましょう」で良いじゃんって思います。
考え方を少しだけシフトすることで、もう少し生きやすくなるような気もします。
そして、自分にできることに関しては自己責任でしっかりと行う。それ以外のどうにもならないことは神様にお願いすることにしましょう。
そう言えば「人事を尽くして天命を待つ」って言葉もありますよね。
昔の中国人は良いこと言いますね〜
あれ?
何だか論題がズレましたが、ミスをしても、それを指摘されても全部自分のせいでもありません。
そしてどんな偉人でもいずれ死ぬという点では同じです。
それで、ミスをしてしまう不完全な自分に気がついても、気を確かにもってできることに取り組んで行きましょう。
今日も最後まで読んでくださりありがとうございます。
また明日〜