木田元『反哲学入門』第一章「哲学は欧米人だけの思考法である」
はじめに 今回の感想の書き方
読み進めていると前章の内容を忘れてしまうため、内容整理のメモ代わりに一章ごとに記事にしていきます。そのため、内容は本文の要約や解釈がメインとなります。
本文中の記号ですが、引用文はnoteの引用機能を使用するか「」で括ります。また、特に記載のない場合、引用は全て本文からとお考え下さい。また(……)は省略の意味と示す場合に用います。
書誌情報
「形而上学」「私は考える、ゆえに私は存在する」「超越論的主観性」……哲学のこんな用語を見せられると、われわれは初めから、とても理解できそうにもないと諦めてしまう。だが本書は、プラトンに始まる西洋哲学の流れと、それを断ち切ることによって出現してきたニーチェ以降の反哲学の動きを区別し、その本領を平明に解き明かして見せる。現代の思想状況をも俯瞰した名著。(カバーあらすじより)
本文は筆者の口述筆記原稿に加筆修正を加えたもので、新潮社『波』に2006年6月号~2007年8月号まで連載され、単行本は一章分加筆して2007年に刊行されました。
テキストは2010年発行版 新潮文庫を使用します。
死をどのように捉えるのか
著者は2005年1月に胃癌手術を受けました。「常日ごろ、死んだらそれきり」と考えているようですが、ここで「自分の死をどう考えるかは、哲学上の大問題」と話題を哲学へと繋げます。数名の人名を挙げて哲学の死に対する態度を示しますが、筆者は「自分の死の問題に関するかぎり、サルトルと似たような考え方」をしていると話を締めます。
哲学の登場 そもそも哲学とはなにか?
まず筆者は「哲学は不治の病のようなもの」と語ります。罹患してしまうと「社会生活ではなんの役にも立たない」ことが気になって止められなくなると言うのですが、その考え方こそが「わたしにとっては「哲学とはなにか」を考えてゆく上での出発点に」なったそうです。
追々考えるけれど、と前置きして筆者はひとまず哲学を以下のように言い換えます。
人生観・道徳思想・宗教思想といった材料を組み込む特定の考え方(……)「ありとしあらゆるもの(あるとされるあらゆるもの、存在するものの全体)がなんであり、どういうあり方をしているのか」ということについての特定の考え方だと言ってもいいと思います。
筆者はこの部分をもう少し丁寧に解説しています。
まず「存在するものの全体」がなんであるかという問いを立てるためには、まず自分がそこから独立した存在でなければいけない。そこで「存在するものの全体」を「自然」と呼び代え、「自然」を問う自分を「超自然的存在」と呼びます。この「超自然的存在」という立場に立脚した視点から「自然」を見るという「特殊な見方、考え方、(……)その思考法が哲学」と呼ばれる、と言います。「自然」をその外枠から観察する、というイメージでしょうか。
ただ、次の引用部分が私にはピンときません。
そうした哲学の見方からすると、自然は超自然的原理―その呼び名は「イデア」「純粋形相」「神」「理性」「精神」とさまざまに変わりますがーによって形を与えられ制作される単なる材料になってしまいます。もはや、自然は生きたものではなく、制作のための無機的な材料・質料にすぎない物、つまり物質になってしまうのです。
続けてこの部分を「しかし」で受け、自然とはおのずから生成していくものであり「そういう意味では哲学は自然を限定し否定してみる反自然的で不自然なものの考え方」とします。
私は超自然的原理の設定と物質的自然観の成立の連動がいまいち理解できませんが、どうやら後程の章で改めて説明してくれているようなので、疑問は一旦据え置きします。
筆者はこのような哲学の考え方を「特殊」と対象化しました。それは日本を含め世界のほとんどの文化圏では「自分が自然のなかにすっぽりと包まれて生きている」と考えられ、「そんな問いは立てられないし、立てる必要も」ないからです。それが「こうした考え方が、西洋という文化圏には生まれたが(……)西洋以外の他の文化圏には」生まれなかった理由だと言い、むしろそのほうが普通であったと指摘します。
西洋でも最初から超自然的原理が設定されていたわけではなさそうです。古代ギリシャの「ソクラテス以前の思想家たち」は「自然が全て」「万物は自然」と考えていたようです。
ところが、ソクラテス・プラトンの登場によって超自然的原理を軸とする発想(=哲学)が持ち込まれました。以後、西洋文化圏では「超自然的な原理を参照にして自然を見るという特異な思考様式が(……)文化形成の軸」になりました。
この哲学の基底を支える超自然的原理を発見したのがニーチェでした。彼はギリシャ悲劇の成立史の研究の途上で発見し、それを当時の欧州文化の行き詰まりの原因と見ました。つまり「超自然的原理を立て、自然を生命のない、無機私的な材料と見る反自然的な考え方」のことです。
ニーチェはすでにヨーロッパ文化において超自然的原理(=神)は機能しえないと考え、「神は死せり」と表現しました。
ニーチェはソクラテス以前の思想の復権を目指し、二十世紀以降の思想家はすべて多少なりそうしたニーチェの志向を受け継いでいます。それらの活動は「哲学批判」「哲学の解体」「反哲学」と呼ばれました。ここで本書の題名「反哲学」が登場します。
反哲学への道
では、なぜ筆者は「反哲学」を親しむのでしょうか。
眉唾だが、と断っていますが「ソクラテス以前の思想家たち」が『自然(フュシス)について』という同名の本を書いたという伝承があるそうで、彼らの思想の主題には自然が念頭に置かれていたようです。
この「フュシス」は「生成する」を意味する動詞「フュエスタイ」からの派生語であり、古代ギリシャ人は「万物を「成り出でたもの」「生成してきたもの」と受けとっていた」と筆者は指摘します。
こうしたアニミズム的思考は同様にアニミズム信仰が根差す日本古来の思想と相性がよく、逆に超自然的原理を設定する哲学とは相容れないと筆者は考え、だからこそ「反哲学」を取るというわけです。
ここに、西洋哲学に対する日本特有の難しさが生じると筆者は考えています。さらに、日本固有の「道徳的実践」「宗教的修行」「詩的直観」の伝統と合流して一種の才能や修行の海が哲学の理解に影響すると考えられるようになり、一層難解になります。しかし、哲学は「原則としてはもっと理づめのもので、ちゃんと読んでゆけばりかいできないものでは」ないようです。
また、本文では筆者自身がどのようにして「哲学」や「反哲学」を志向したのかが語られています(「「反哲学」への道」「父の一言」)が、本筋から逸れるのでここでは割愛します。興味深い半生を辿っているようで、興味のある方はぜひご自身でお読みください。
「哲学」の語源
「哲学」という単語は明治期に西周によって英語「philosophy(フィロソフィー)」から翻訳されました。そこで、まずは西洋における哲学を示す語の変遷を見ます。
「philosophy」は古代ギリシャ語「philosophia(フィロソフィア)」の音を移植した単語です。これは動詞「philein(フィレイン/愛する)」と名詞「sophia(ソフィア/知識・知恵)」を組み合わせた合成語です。
この言葉は最初、紀元前6世紀ごろ、ピュタゴラス教団創始者によって「ho philosophos(ホ フィロソフォス/知識を愛する人)」と用いられ、紀元前5世紀に歴史家ヘロドトスによって動詞「philosophein(フィロソフェイン/知を愛する)」と用いられました。
そして、「philosophein」を抽象名詞「philosophia」へ変形して、「知を愛しもとめる」として用い始めたのがソクラテスでした。
さらに、ヘーゲルは「philosophia」という呼称を排して「Wissenschaft(ヴィッセンシャフト)」という呼称を提示します。辞書で調べると「科学」とありますが、筆者は「知の体系」と訳しています。言語面からソクラテスを脱しようとする試みもあるようです。
さて、日本においては幕末から明治期にかけて、西周が「philosophy」を「希哲学」、すなわち「知を希求する学問」と訳しましたが、オランダ留学の後は「哲学」と翻訳を改めています。なぜ「希」を削ったのか、本書では憶測程度でしか書かれていません。
哲学についての誤解
この小節では、すでに述べられている哲学の定義や、それが日本の思想と相反するものであるということを繰り返し述べています。では、なぜその不自然さを抱えたまま日本で哲学研究が進められていたのかというと、デカルトがその原因の一端を担っているようです。
デカルトが『方法序説』でもち出してくる「理性」ですが、われわれはあれを読んだとき、近代人ならこうした理性は当然みなもちあわせているものだと思ってしまいます。もしこれをもっていなければ近代人として恥ずかしいことだ、ちょっと自信がないけれど、もっているふりをしなければ哲学どころではない、と思うわけです。
(……)
そうしたデカルトの言う理性は、われわれ日本人が考えている「理性」などとはまるで違った超自然的な能力なのですから、それを原理にして語られていることが、われわれに分かるはずがない。
つまり、常識の知ったかぶりをしなければ研究の壇上にさえ立てなかった、ということのようです。
哲学の中心問題は存在である
哲学の問題はどのように語られてきたのでしょうか。
本文では古代から現代にかけて何名かの思想家の言葉を引用していますが、結局「「存在」という曖昧模糊としたものが問題になっていた」とまとめられています。
では、「存在」とはなにか。筆者は「似たような問題」を提起しているとして丸山眞男の研究を挙げています。それは、江戸幕府の朱子学から徂徠学へのイデオロギーの変化を、社会秩序を天地自然の運行に委ねる考えから主体的人間によって運用する考えへの変化、「なる」から「つくる」への変化と捉えるものです。
丸山はこの考えをさらに深め、「すべての神話が「つくる」「うむ」「なる」という三つの基本動詞で整序できる」と主張しました。一神教による「つくる」創世神話、多神教による「うむ」創世神話、そして無人格の神秘的な力による「なる」創世神話、といった具合です。
筆者はここでハイデガーを引き出します。ソクラテス以前の思想家たちが『自然について』という題の本を書いたとき「自然」とは「いっさいの存在者の真の存在という古い根源的な意味での自然」であるとハイデガーは考えていたと指摘し、古代ギリシャ語の「自然」という言葉がもともと動詞「phyesthai(フュエスタイ/生成する)」の派生語であることを関連させて、当時の思想の根底にあったのは丸山で言うところの「なる」思想であると言います。
ハイデガーは、プラトン/アリストテレスの段階ですでに、「あること」は「つくられてあること」とみなされるようになっている、ということを指摘し、こうした存在概念の転換と「哲学」(フィロソフィア)という言葉の誕生は結びついていると考えているわけです。
つまり、古代ギリシャでは「なる」から「つくる」へと思想が変じたとき、「哲学」という考え方が生まれたのです。
「哲学」誕生の気配
この小節では「どうしてプラトンがそうした生成消滅をまぬがれた超自然的原理であるイデアを想定したり、「つくる」論理を発想したりできたかが気になります」と筆者が提起しています。これについてこの小節では詳しく述べられませんが、ただ結果として、プラトンやアリストテレスが整備した思想は唯一神への信仰の重要な下準備となったようです。
感想
対話を口述筆記で一人称の語りに書き起こしたテクストですのでわかりませんが、冒頭の死に関する話題は今のところ、ほかのどのテクストにも関連していません。導入の話題として単に書き起こされただけか、はたまたまだ未読の部分で関連してくるのか。
話題も行ったり来たりしながら進んでいる印象がありますが、この章段はこれからの概略のような意味合いもあるのかなと思いながらまとめました。
以降読み進めるのが楽しみです。
読んでいただいてありがとうございます。