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どうもkumanutsです。

昨晩、ちくま評論選で「『贅沢』のすすめ」という文を読みました。著者は國分功一郎さん。


贅沢を感じるのは必要の限界を超えて支出が行われる時である。
「贅沢な暮らし」は時として非難されるが、必要なものが必要な分しかない暮らしというのはリスキーである。
したがって、人が豊かに生きるためには、贅沢がなければいけない。

でも消費社会では贅沢ができない。
なぜか?
贅沢には満足に達する点がある。食べ物なら満腹になったら終わり。家具が欲しいなら、最大で部屋の容量まで。
でも消費は違う。消費とは形がないものを欲しがること。例えば、バズってる新商品を、これ買ったよ!と報告するために、買う。その新商品が目当てなのではなく、報告によって得られるハートの数とか、コメントとか。これが消費。
消費には満足する限界点がない。
したがって消費社会においては、人は永遠に贅沢できない。永遠に満足することはない。満足することを我慢させられている。

飯テロもその一種かな?


あーだから「満足する豚より、満足しないソクラテスの方がいい」なんて言葉が受け入れられ始めたのね。
この社会を肯定するために。
自分を肯定するために。




や、それはいいと思う。自己肯定感ないと生きるつらいから。けど、それを真実だと思っちゃうのは違うと思う。自分は今、この考えを信仰しているんだって。バイアスがかかってるかもっていう疑いを忘れちゃいけないってこと。

真実なんてもはやないかもしれないけどさ。


っていう人少しうざい。
                                      (私やんΣ(゚д゚lll)



今日の未来予想

自習→本屋いく(かな?)→帰る→最近夜更かしして朝起きられてないから今日は早く寝たい。


振り返り

集中できん。やりたくない。
やりたくないぞー!このやろー!疲れたぞー!

窓の外を見ると、車の往来がある。工事現場のおっちゃん達がいる。それを見てると落ち着く。自分がいなくても大丈夫だなって。安心する。仮に私が頑張らなくても、気が抜けちゃって、何も手がつかなくなって、引きこもったり、ニートになったりしても、誰かは頑張ってる。あえて大げさに言うなら、今この瞬間に私が死んでも世界は何も変わらない。
それに少し安心する。少し寂しく思う。
50安心、20寂しい  ぐらい。
生きててもいいんだって思える。
たとえ私が何もしなくても、
生かしてくれる人がいれば生きれるし、生かしてくれる人がいなければ死ねる。それで私には生かしてくれる人がいたって話なだけだ。幸せなのかはまた別の話。

そうねー今はできれば生きたい。でもそれは生きてるからそう思うのかもしれない。だから本心なのかは分からない。バイアスはいつもかかってる。
じゃあ本心って何?って言うと、誰かに与えられたものだね。朝に書いた消費と同じ。本心を求めても求めても見つからない。満たされない。私たちは永遠に満足しない。これは本心じゃない。あれも本心じゃない。ってね。
それで多分死ぬ間際に気付くんだ。今まで思ってきたこと全部本心だったんだって。(以上カイジのもじり)



おやすみなさい。さようなら今日の私。

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