品田悦一 『万葉集の発明 国民国家と文化装置としての古典』新装版 新曜社
私の両親はほぼ無筆だ。初めて親元を離れて暮らしたのはイギリスの大学院に留学した25歳から27歳にかけての2年間だった。向こうで暮らし始めてしばらくして、家から大量の衣類と共に手紙が届いた。その文面を見て驚いた。文章の体を成していなのである。よく戦争映画で、特攻隊員が出撃する前日に母親が面会に来て配給の砂糖を貯めて拵えた重箱いっぱいの牡丹餅と手紙を置いて帰るシーンがある。その手紙は辿々しい文体で親が思いの丈を切々と綴ったものであったりする。そういう感じだったのだ。驚くと同時に素朴な疑問が湧いた。今までどうやって社会生活を営んでこれたのだろう、と。確かに、中卒でブルーカラーの父とその妻たる母には現実の社会生活の中でまとまった文章を書かなければならない場面というのはほぼ無かったと思う。
『万葉集』が、庶民から天皇まで幅広く「国民」が詠んだ歌を集めたもの、と語られることがある。それを耳にしたり目にしたりした時に、そんなはずはないだろうと思うのである。それは、歌を詠むというのはそれなりの知性や感性に恵まれた上で知的訓練を受けた者でなければできない行為であることを実体験に基づく感覚として持っているからだ。
では、なぜ『万葉集』が国民詠歌として語られることがあるのか。日本が開国して諸外国に対して「日本」という国家単位での存在を示す必要があった、というのが大前提だろう。「日本」の「国民」の存在を示さないといけない。「日本国民」としての意識や自覚といった精神性のバックボーンの象徴として「国民詠歌」が必要だったのだろう。
「あなた」がいるから「私」が在る。私一人だけなら私と私以外を区別できないし、そもそも区別しょうとの発想が出てこないはずだ。他者を前にして自分が何者であるかを語る必要に迫られて、都合の良い「私」を拵えるのである。
産業革命や欧米列強の対外進出という流れの中で、幕末の日本は幕府、各藩それぞれ別個に諸外国と交渉を持った。結局、大政奉還で幕藩体制を清算し、大日本帝国として統一国家を樹立したものの、人々の意識としては従前の幕藩体制から急には変わることができない。「ニッポン」と「コクミン」をすぐにも創らないといけない。
富国強兵の掛け声の下、徴兵制による大日本帝国軍が創設されたものの、「国民」がいないのに「国軍」が成り立ち得るのか、軍人は何のために命を賭けて戦うのか、という疑問は当然に当時もあったはずだ。現に、近代統一国家としての新生日本の姿が明らかになる過程で、不平士族が反乱を起こす事件が続発する。極め付けは西南戦争だ。何百年も「クニ」=「藩」あるいはその下部単位であったものがそう簡単に変えられるものではない。殊に支配階級に属していた側は既得権益の喪失を黙って受け入れることが難しかったであろう。新政府は実態としては徳川時代の統治体制を居抜きで利用するものとなり、その主体も維新を主導した薩長土肥の人々だ。「国民」が生まれる素が無いのである。
『文藝春秋』の2023年1月号に興味深い記事がある。昭和史研究家の保阪正康が書いた『平成の天皇皇后両陛下大いに語る』というもので、2013年2月4日に保阪が半藤一利と共に皇居に呼ばれ両陛下と会談をしたときのことが書かれている。そのなかにこんな一節がある。
保阪はこの記事のなかで陛下が戦前のことを言っているのだろうと書いているのだが、果たしてそうだろうか。戦後と言っても、まだ100年も経っていない。形ばかりの「個人」ばかりの世の中になって、かつての共同体に代わる自意識の拠り所が無いままに、資本主義だのグローバルだの、わけのわかったようなわからないようなお題目を唱えながら目先の些細な我欲と損得を追い回すセコい社会に成り下がった。そうした世情をご理解の上での「日本にはどうして民主主義が根付かなかったのでしょうね」というお言葉ではないかと私は思うのである。
それで『万葉集』だが、全国区で最長の歴史を持った「国書」として万人に受け容れられ易いということのようだ。なんとなく最古の歌集という風情が漂っているが、原書は無く、編纂意図も成立経緯も研究途上である。要するに、本当の正体はよくわかっていない。今我々が書店で入手できるものはこれまでの研究成果に基づいた一定の合意の下にある写本から版を起こしたものである。とはいえ、古いことに間違いはなく、古来より膨大な量の写本が伝来し、江戸時代に木版印刷が本格化すると当然に印刷対象として取り上げられる。尤も、こうした事情は『万葉集』に限ったことではく、古典文学一般に言えることでもある。もっと言えば、「古典」という概念そのものが明治の発明だ。お上は「古典」を持つ「国民」である、と喧伝することで「国民」としての一体感を醸成しようとしたのである。
例えば、正岡子規は「文学」と「国民」はセットだと考えていたらしい。
「国民」は「国民詠歌」や「国詩」を理解できないといけない。つまり、規格化された知識を共有できないといけない。ここに学校教育の存在意義が生まれるのである。『万葉集』と学校教育の両方に関係する人物に島木赤彦(本名:塚原俊彦)がいる。1876年12月に小学校教員の塚原浅茅の四男として長野県諏訪郡上諏訪町に生まれ、1898年3月に長野尋常師範学校を卒業し、地元の小学校教員をしながら詩歌の創作をした。1912年6月に諏訪郡視学となるが、1914年4月に妻子を諏訪に残し単身上京、『アララギ』の活動に専心する。本書ではその赤彦に関する記述の中に次のようなものがある。
以前にどこかに書いたと思うが、『万葉集』に収載されている約4,500首の歌の半分近くは相聞歌だ。しかし、戦前の教科書に相聞歌は載っていない、らしい。恋は生き物としての人間に自然な感情であるし、恋愛はセックスに繋がり、出産さらには豊穣に繋がる。国家事業として相聞歌満載の歌集を編んだというのは、国家繁栄の祈りの表現でもあったはずだ。しかし、国語の教科書に相聞歌は載らない。つまり、『万葉集』を取り上げて『万葉集』を教えないのである。人の心の機微や美しさを表現したものを使って、その本質ではなく枝葉末節の方に目を向けさせようとするのである。心という不定形のものは「教える」類いのことではないのでやむを得ないところはある。しかし、当然そこには教育上の無理が出る。そうした類の無理が溜まりに溜まった結果が先の戦争であり、その結果が焼尽した国土だったのではないか。と言うのは極論暴論であろうか。
ある目的のために、本来欠くことのできない背景や事情を端折って、言葉尻だけを都合よく並べて、人はその言葉を自分の血肉として受け容れることができるものだろうか。教育、宗教、政治、その他人間生活の社会面の諸々が明治以降のこの国の促成栽培的な姿勢から脱していないように思うのである。幕末以前の先人たちは学校教育もITも持たなかったが、なんでもカネとゴリ押しで解決できてしまうかのような幻想に幻惑されているかのような現代の我々よりも余程豊かな暮らしをしていたように思ってしまうのである。それがいわゆる「隣の芝生」のような幻想であることは承知しているつもりなのだが。