国境について 『新版 エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』
初めて日本の外に出たのは1984年3月だった。大学3年と4年の間の春休みにオーストラリアに出かけた。なぜオーストラリアだったのか、今となっては記憶に無いのだが、「外国」といえばアメリカという世間一般に抵抗してみたかったが、かといって前人未踏の土地に出かけるほどの根性がなかったというだけのことだろう。しかし、初めての外国はオーストラリアではなかった。格安航空券で往復したので、往路は成田を発って、福岡、台北、香港、ペナンを経由してクアラルンプールまで行った。そこで二泊して、ようやくシドニーに着いた。だから厳密に言えば、私にとっての最初の外国は台北の空港だ。復路はメルボルンを発って、クアラルンプール、台北を経由して成田へ戻った。旅行自体は楽しかった気がするが、何かが欠落していると感じた。外国に行ったというのに国境というものを目にしていなかったのである。
翌1985年、大学卒業直前の春休みにインドへ行った。なぜインドだったかというと、費用の問題だ。遠くへ行きたいと思ったがカネが無い。カネが無くても行けそうなところは、当時、中国とインドくらいだった。この時も格安航空券で、往路は成田を発って、ソウルを経由してコロンボまで行った。そこで一泊して、マドラス(現チェンナイ)に着いた。復路はカルカッタ(現コルカタ)を発って、ダッカで一泊、ラングーン(現ヤンゴン)を経由してバンコクへ行き、二泊した後、ソウル経由で成田へ戻った。やはり国境を目にする機会がなかった。
どうしても、というわけではなかったのだが、なんとなく国境というものを見てみたいとの思いが募った。それで、社会人最初の正月を香港で迎えることにした。当時の香港はイギリスの租借地で、イギリスの統治下にある地域と中国との境が実質的に「国境」だ、と自分の中で結論づけたのである。
当時、落馬州には「国境展望台」というものがあった。建物ではなく、ちょっとした高台の上が公園のように整備されて、中国との国境方面に向けてコイン式の望遠鏡が据え付けられているだけの場所だった、と記憶している。そこへ行くには香港の街中から九広鉄道で上水まで行き、そこから元朗行きのバスに乗って落馬州で降りるのである。中国語も広東語も知らず、それでも鉄道はなんとかなるのだが、路線バスが難関だ。行き先が元朗となっているダブルデッカーのバスの運転手に地図を見せて「ろくまくちゃう」と言うと、「乗れ」というような素振りを見せたので料金を払って運転手の近くの席に座った。バスが田圃の広がる中のなんでもないところの停留所に止まると、運転手が私の方を振り返って大きな声で何事か言うので、礼を言ってバスを降りた。他に下車した客はいなかった。
田圃のように見えたのは鴨の養殖池だった。その養殖池は四角く区切られていて、バス停を背にその区切りの畦道のような真っ直ぐな道を歩くこと約20分。目の前に国境展望台の高台があった。
公園のような風情で、入場料の類は不要だった。境界線自体はそこからだいぶ離れたところにあるらしく、遠くに中国側の大規模な検問所のようなものが見えた。高速道路の料金所のようなつくりで、大型トラックが盛んに往来しているのが見えた。これが国境というものかと、自分は思ったに違いない。感情についての記憶は無い。1985年の大晦日のことだ。
それでも、やはり物足りない。国境を自分の足で越えてみたい。そう思いながら今日に至っているが、その思いは消えかかっている。今更どうでもよくなってしまった。
国境といえば、一番緊張感があったのは東西ベルリンの往来だった。西から出る日帰りバスツアーを利用したが、国境の検問所でパスポートを回収され、返却まで1時間ほどバスに乗ったままで待たされるのである。その間、東側の兵士がキャスターの付いた大きな鏡をバスの下に出し入れし、その周りを軍用犬を連れた兵士がウロウロし、たまに機関銃を手にした兵士が車内に入ってくる。1989年6月のことだった。西の宿に戻ってテレビをつけると、CNNも地元局のニュースも天安門事件のことばかり。
その1989年のクリスマスを西ドイツのアウグスブルクで過ごした。同年夏にホームステイでお世話になったベルタ・クルークさんに招かれたのである。お宅に着くと、ベルタさんは外出中で、隣町のボービンゲンに住む妹のレジー・ナウマンさんがテレビでニュースを観ていた。ブラウン管には東西ベルリンを隔てるコンクリートの壁をハンマーで叩いたり、壁によじ登ったりする群集の姿が映し出されいた。つい半年前にはあれほど物々しくて人が近付くことすら不可能に見えた東西国境で群集がお祭り騒ぎをしている。そこは国境を挟んで同じ言語集団が暮らしていたので、異なる言語集団と境界を接するのとは違う何かがあったかもしれない。かといって、本来あるべきではなかったものがなくなった解放感、と言ってしまうと少し違う気もする。
国境を接して生活すること、つまり自分とは全く異なる相手と隣り合って暮らしを営むリアリティの有無は、物事の考え方とか自他の区別の意識とかに超え難い差異を生むはずだ。ユダヤ人の問題というのは、当時のドイツでのことだけではなく、欧州という陸続きで大小様々な国が存在する現実の中での問題だったのだろう。信仰とか信条のこともさることながら、ユダヤ人が富裕層を象徴するものとして認識されていたことも、彼の地の階級社会が抱える歪みのようなものと相俟って、何がしかの社会心理上の作用をもたらしたことは想像に難くない。
「ユダヤ人」というのは人種のようなものではなく、ユダヤ教の信者という意味なのだが、原義はイスラエル民族を指すものだったらしい。エスニックグループという点では、中東諸国にルーツを持つミズラヒ・ユダヤ人(ミズラヒム)とヨーロッパ系のアシュケナジ・ユダヤ人(アシュケナジム)とのの区別があるという。「区別」があるということは一口に「ユダヤ人」と言っても、その「ユダヤ人」の間で様々な「区別」があって、現在のイスラエル国内でもそうした「区別」が政治や人々の暮らしに反映されているらしい。とはいえ、アシュケナジムなら欧州域内では他の人々と区別がつかないのではないかと思うのは、私が非欧州人であるからで、欧州人の間では見た目とか言語の訛りやアクセントなどでである程度はわかるものなのだろうか。しかし、わかったからといって、それが何なんだ、とも思う。
日本に日本人として生まれ育つとそのあたりの感覚がわからない。わかったからといって、それでどうこうなることではないのかもしれないが。