『道の手帖 佐野眞一責任編集 宮本常一 旅する民俗学者』 河出書房新社
2005年初版発行だ。宮本が亡くなって24年が経過している。今はそこからさらに16年。いよいよ世の中は崩壊に向かっているとの思いを強くした。
宮本は伝承の収集をその世界観構築の原動力とした。書いたものというのは、当然のことながら、整理されたものだ。殊に時代を遡るほど、記録媒体である紙も筆記具も貴重なものとなる。そういう物を費やして記録に残すとすれば、そうした費用を負担できる者にとって都合の悪いことは残らない。歴史が創作とされるのは史料のそういう財としての側面を反映している。勿論、そうした記録は今を識る上で重要ではあるが、それだけでは人間のナマの世界は窺い知れない。だから、書かれたものの行間を読む学問として文学が成り立つのであり、民族学や民俗学が必要なのである。ナマの人間がわからずに政治も経済もクソもない。
歴史や文学から抜け落ちているのは人口として圧倒的多数を占める常民の暮らしだ。フツーの人々が何を考え、何を思い、どのように行動したのか。そういうものは史料には残らないが民話や伝承、そうしたものに基づいた習俗を通じて連綿と今につながる。「遠野物語」も「今昔物語」も「平家物語」も、今は書物となって流通しているが、元は口承だ。語られたものと文字に起こされたものが同じはずはない。語りにあって活字にないものは何なのか。あるいは、活字にあって語りにはなかったものもあるだろう。その隙間を埋めるのが人の生活そのものではないか。
ところが、その常民の暮らしを見出さなければならないはずの学問の方が伝承に迫ることができずにいる。本書に収められている宮本と谷川健一の対談「現代民俗学の課題」の中で宮本は次のように述べている。
また、伝承を収集することの困難について、宮本は水上勉との対談「日本の原点」の中でこんなふうに語っている。
グローバル化だとかなんだとか言って、物事をデジタルで測るようになる。数字というのはわかりやすいから、それがもともと何を意味していたかということとは関係なく、独り歩きをする。また、わかりやすいからそれを安易に追い求める。結果として、数字の多寡だけにこだわるようになる。どれだけ稼いだか、どれほど儲けたか、ということがその人や組織そのものの価値であるかのようになる。そうなると猫も杓子も数字を追う。どんな手段を使ってでも追う。勢い、効率が追求される。いかに手をかけずに大きな数字を得るか、ということが大事になる。そんな世の中で面倒なことは忌避されるのが当然だ。愛情、何それ? そのうち家族も死語になるか。人は個として存在するのが当たり前になりつつある。個人ではなく、ただの個。もはや人ではないのである。
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