カール・マルクス著 長谷部文雄訳 『賃労働と資本』 岩波文庫
たぶん「価値」というものは観念であって、それを恰も実体であるかのように認識するところから人間社会の喜劇的悲劇や悲劇的喜劇、悲喜交々が起こっている。所謂「社会主義」や「共産主義」の理念に基づいて建国されたことになっている国々が、結果として悉くああいうことになってしまったのは、観念と実体とを混同したからではないか。或いは、その手のマヤカシをいつまでも続けることができなかったという至極常識的な帰結なのかもしれない。
今更だが『資本論』を読んでみようかなと思って仕事帰りに職場近くの大型書店に立ち寄った。岩波文庫の棚を眺めたら、『資本論』は9分冊構成だった。「えっ、」と立ち眩みかけたが、なんとか持ち堪え、とりあえず一巻から三巻までと本書を手にしてレジに並んだ。恥ずかしながら、私は大学生のとき経済学部に籍を置いていた。卒業したので一応「経済学士」である。経済学部だからマルクスが必読というわけではないのだが、自分自身の斯様な現状は遺憾なことである、としておく。
現実を概念化して、その概念だけをいじくり回すことで何事かを極めた錯覚に陥る、なんてことはたぶんよくある。現実は誰にとってもそこにあるが、認識は人それぞれだ。それぞれに現実であると認識していることを主張し合い、その異なる認識に立って銘々が行動するところに大小種々雑多な対立が持ち上がる。前提を異にしたままで勝手に妄想した表層を論じ合うのだから、そもそも収束不可能だ。その収束不可能な世界を我々は生きている。
『資本論』はまだ一文字も読んでいないが、本書に関する限り、いきなり資本家だの労働者だのと言ったところで、政治にはなるかもしれないが経済学にはならないだろう。経済活動の投入とその果実の配分の合理性と最適性を語るという点では経済学かもしれないが、稚拙な思い込みと四則演算で終始して科学になるだろうか。資本家対労働者という階級間の対立があるとの単純な前提に立って、数字で表現できる程度の表層の利益の帰属先だけを語ることにどれほどの意味があるだろうか。
さまざまな資源・資本を投じて何事かを生産し、その販売によって投じた資本を上回る果実を獲得して利益を得たとして、その利益を関係者全員にとって公平公正に配分することはそもそも可能なのだろうか。世界は定常状態に置かれているわけではない。時々刻々さまざまな生産条件や市場環境が変化する中で投入から産出に至る全過程を構成する各要素の寄与度が変化しないはずはないだろう。
人間は社会関係の中で生き、その関係性の中に自己の存在意義を見出そうとする。よく言われるところの自己承認欲求があり、それを満足させるべく意思を発露し行動を起こす。或る特定の生産活動を取り出したときに、そこに関わる関係者が各自の自己承認欲求に基づいてそれぞれの寄与度に応じた利益配分を要求したならば、その生産活動は持続可能であろうか。「労働者よ団結せよ」は結構だが、結果として生産活動が滞ってしまったら、団結した労働者は如何にして生活の糧を求めたらよいのだろうか。
損益計算なら簿記や財務会計で事足りるのであろうし、現実にそれが世界的に現実経済の共通言語になっている。おかげで私はこれまで生計を立てることができた。一介の賃労働者として淡々とその時々の刹那的な合理性に従って素直に生きてきた、つもりである。そこに思想的な何かなどあろうはずもなく、安直に簡易な選択を重ねただけのことだ。而して受け容れるより他にどうすることもできない今がある。そこに後悔も満足もなく、幸も不幸もない。
観念と現実ということで内田百閒を思い出した。
観念と現実ということに関しては時間もそうだろう。当たり前のように「過去、現在、未来」というが、未来があるかどうかなんてことはわからないし、現在は瞬時に過去になってしまう。結局のところ、我々は過去の回想に酔うことで正気を保って生きている。価値もそういうものかもしれない。我々の社会には価値というものがあり、我々はそういうものを創造する価値ある存在なのだ、と思い込むことで正気を保って生きている。尤も、側から見ればただの狂気の集団なのかもしれないのだが。