袖井林二郎 『拝啓 マッカーサー元帥様 占領下の日本人手紙』 岩波現代文庫
先日読んだ『百年の手紙』の中に敗戦直後にGHQ総司令官ダグラス・マッカーサーへ宛てた手紙が2通紹介されていた。それらを紹介するマクラに当たる書き出しが以下のようなものだった。
それでこの『拝啓 マッカーサー元帥様』が読んでみたくなり、早速Amazonで取り寄せた。読んで驚いた。日本人って奴は大したもんだと感心した。自分はその時代を生きていないのだが、その時代を生き抜いて今も生きている親の倅である。他所の国の人のことはよく知らないのだが、主要都市が悉く焦土と化した国を、様々な幸運に恵まれたとは言いながら、わずか10年ほどで、多少手前味噌的なところはあるにせよ、「もはや戦後ではない」と国家が宣言するところまで復興させてしまう底力はタダモノではないのである。
尤も、「様々な幸運」と書いたが、時勢の影響は大きいと思う。前にどこかに書いたが2016年6月に福島の原発周辺、2019年7月に気仙沼を訪れた。2011年3月の震災からそれぞれ5年、8年を経ていたが、どちらも「復興」とは程遠い姿だった。何をもって「復興」と呼ぶかという議論はあろうが、少なくとも原発周辺の方には人の暮らしはなかった。
総務省統計局が開示している統計によれば、日本の人口は2008年がピークだ。人がいれば当然にその分の消費や需要が発生する。人口が増勢にある中での経済成長であるとか戦後復興と、人口が減少基調に転じ少子高齢化という構造が確立した中で、特にそうした特徴が顕著な地方経済の災害復興とが同じはずはないのだが、今の日本は一度コケたら容易に立ち直れない状況に置かれているのは確かだろう。
その滅亡過程を食い止める切り札が「インバウンド」であったわけだが、安易に外部の力に依存する発想とか姿勢は、焦土にあってマッカーサーに象徴される占領軍に媚び諂う態度と通底するものがあるように見える。2020年初頭以来の感染症大流行で頼みの「インバウンド」が風前の灯だ。感染症は一時的なもので、物事が「グローバル」に動く趨勢に変わりはなく、今を耐え凌げば再び従来の他力本願的な行き方に回帰するのか、そうした外部依存の危険を憂い、自ら新たな価値創造を模索しようとするのか、興味深い局面に立たされている、と思う。
さて、敗戦の焼け跡に復興の指揮を執る全権限を有する人物が、つい先日までの敵国からやってきた。そのとき人々はどうしたのか、ということの一端が本書から読み取ることができる。勿論、マッカーサー宛の手紙の全てが公平に保存されたわけではないだろうが、それでもかなり私的な願い事の手紙までもが占領政策を立案し執行する上で資料的価値があると認められて保管された。そして今尚50万通近くが米国のナショナル・レコードセンター、マッカーサー記念館、その他公的な施設に資料あるいは史料として保管され閲覧に供されている。本書ではそのうちの一部を内容によって分類し、日本の敗戦直後の姿を活写している。著者の意図はそこではないかもしれないが、そこにこの国の歴史に通底するものを垣間見た思いがした。
権力・権威は常に自己の外部にあり、自己が外部の権威と整合的であることを誇示することで自己の存在確認、自己承認を可能にする。その外部の権威は社会が権威として認識しているものであれば、何でもよいのである。「何でもよい」というと語弊があるが、神、仏、時の領主、幕府、天皇、マッカーサー、あるいはこれらが象徴する何者かを頂き、その時々の社会は成り立っていた。やはり人は人である以前に生き物であり、生き物は生きるために生きるのである。何者を権威として縋るか、というのは生存本能による嗅覚のようなものが選別することであって、たぶん理屈は後付けだ。だから敗戦で流した血と涙が乾かないうちに、人は自分の頭上にそれまでの敵将が君臨することが決まれば躊躇うことなく「マッカーサー元帥様」と擦り寄ることができるのである。
本書の「私的なあとがき」の以下の一節は私には説得力のあるものに思われた。
本書の解説の中でジョン・W・ダワーはこう書いている。
アメリカとは国の成り立ちが全く異なるのだから、日本人の無節操に見えるところが理解されないのは当然、との意見もあるかもしれない。しかし、私も本書に紹介されている手紙は時代背景を考えると「理解しきれない」のである。