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桂米朝 『落語と私』 文春文庫

一口に文庫本と言っても版元によってサイズが微妙に異なる。作者毎にまとめて書棚に本を並べているので、本書は隣に並ぶ岩波現代文庫の『上方落語ノート』より少し上に出っ張って収まりがよくない。文春と岩波の中間の高さが河出文庫で、志ん朝『世の中ついでに生きてたい』や小島政二郎『円朝』も同じ棚にでこぼこと並んでいる。中でも本書は背表紙が焼けて真っ白なので尚更目立つ。

一時期は読み終えた本がある程度まとまると古本屋へ持ち込んでいたのだが、手放した後で不意に「あれなんだったっけ?」と手放した本に書かれていたことが気になり出すということが続いたので、近頃では狭い公団住宅の室内に並べた本棚の中が立体テトリスと化している。本書は米朝が亡くなった頃に一度読んだのだが、そういう身近な風景の中で気になるようになり、うっかり手にしてしまった。

もともとは「ポプラ・ブックス」という中学生を対象としたシリーズとして1970年代後半に発行されたものが1986年に文庫になった。「中学生向け」というのは誰がどのような基準で決めるのか知らないが、気をつけた方がいい表現だと思う。自立して生活を営んでいる中学生は少ないだろうが、物事の捉え方や考え方は成人とされる年齢層の人々とそれほど違いがないのではないか。少なくとも自分は中学生の頃の記憶はかなり鮮明であると自覚している。中学生の頃の記憶や感覚があるということは、そこから「成長」していないということでもあるのだろう。人は自分で思っているほど成長はしない、と敢えて記しておく。

そういえば、茨木のり子の『詩のこころを読む』は岩波ジュニア新書だ。以前、何かの記事でNHKのアナウンサーだった山根基世さんが座右の書として本書を挙げていたのを目にして購入した。私には「座右の書」のようなものは無いのだが、『詩のこころを読む』はすぐに手の届くところに置いてあり、時々パラパラと捲っている。冒頭で「作者毎にまとめて書棚に本を並べている」と書いたが、『詩のこころを読む』の隣には『インド・カレー紀行』と『パスタでたどるイタリア史』が並んでいる。いずれも岩波ジュニア新書で、同じ列には『砂糖の世界史』(岩波ジュニア新書)、『かつお節と日本人』(岩波新書)、『発酵』(中公新書)、『醤油・味噌・酢はすごい』(中公新書)と、何故か食い物関係が並ぶ。まぁ、いいじゃないか。

その中学生に米朝は落語の何を語ろうとしたのだろうか。本書は落語とはという話はもちろんのこと、その成立に至る歩み、噺の決め事とその経緯、落語という芸の社会の中での位置の変化といったことを平易な言葉で語っている。

改めて読んでみて感心したのは、話芸の技術的な要諦が日常生活の緻密な観察から導き出されていることだ。一人芝居のように見えるかもしれないが、芝居とは違う。話芸として一人の噺家が語りだけで一つの世界を創造するのである。殊に視線を重要視している。近頃はすっかりナマの落語から遠ざかってしまい、もっぱら音声や収録映像ばかりで聴いているので、あまり意識していなかったのだが、確かに上下の切りかたは噺家と噺の印象を大きく左右する。寄席や落語会で前座が噺をするとき、噺だけ聴いているぶんには立派なのだが、高座の様子全体となると「ん?」と感じるのはそういうところにも原因があるのだろう。

「目は口ほどに物を言う」という。本書では「しぐさと視線」という章を設けて、やや技術的なことを交えながら複数の人間の間の距離感をどのように表現するか、またその距離感が話の世界を構築する上でいかに大事であるかが語られている。

視線のきめ方は重要で、遠近は目一つできまります。

45頁

尤も、視線というものは文化によって意味合いが異なるので要注意だ。相手の目を見る、凝視する、覗き込む、などというのは誰に対しても同じ意味を表現するものではない。西洋の方ではボディランゲージとしてeye contactが重要なのだが、それをそのまま日本の文化に当て嵌めようとする大胆な人が少なくない。国境を接して異文化と対峙する緊張感の中で、相手が何者かを探るための必死な対応として目を合わせる必然がある場合と、何事かを共有していることが前提となって同調圧力が機能している中で探るべきではない一線を超えたところに踏み込む場合とでは、相手と目を合わせることの意味合いは自ずと違う。当然だろう。思考停止で教条主義的な行動原理に依存していると、それこそ落語の与太郎のようになってしまう。

しかし、視線や目の表情は自他の認識においてそれだけ大きな役割を担っているということでもある。私は電車やバスの車内、駅や人混みのような人口密度の高い場所では今でもマスクを着けている。歩いているときに前を行く人が小さな子を抱っこしていると、その子と目が合ってしまう。つい笑いかけてしまうのだが、マスクを着けているにも関わらず、相手には私が笑っているのがわかるらしく、笑い返してくるのである。この辺りの事情については、以前このnoteに書いた山極壽一の話がわかりやすい。

また、落語の噺の世界は日本の都市生活における社会学でもある。いわゆる一般常識というものがないと噺の面白さが理解できない。寄席や落語会で噺を聴いた時に他の客の多くが笑ったり涙ぐんだりしているのに、自分にその理由がわからないとしたら、自分が世間で共有されている何事かに参加できていないということでもある。そこで、何が可笑しかったんだろう、と考えたり人に尋ねたりすることで世間の何事かを学ぶことになる。

 むかし、田舎から若い子を丁稚小僧として店に採用したりした時、すこし馴れてきた段階で、「いっぺん寄席へ連れていってはなしを聞かせてやれ」などと言った主人がよくあったそうで、これは一つの耳学問、社会勉強になったものでした。明治時代、各地方から東京へ集まった書生さんたちが、一番てっとりばやく、東京の人情風俗社交などをおぼえるのには、寄席が良いとされていたそうです。
 人との応対や、折目切目の挨拶のしかた、さまざまな場合の人への対し方、使う立場と使われる立場、……知らず知らずのうちに教えられます。

89頁

すくなくとも権威や肩書や財産などで人間の値打がきまるものではないということなんかは、わたしの場合、どうも落語や講談で知らず知らずに感得していったようにも思えるのです。

93頁

少しばかり大袈裟な言い方をすること、私は生きる上で必要な心構えのようなことは全て落語で学んだと思っている。落語を聴こうと思って聴くようになったのは40を過ぎてからなので、それ以前は迷走状態であったということでもある。

寄席や落語会に出かけることは無くなってしまったのだが、本書にあるような落語の世界はもうどこにも無いのではないか。幸い、もう落語なしでも生きていける気がする。それほど長いことでもないので。

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