篠田謙一 『人類の起源 古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』 中公新書
映画『リトル・マーメイド』のアリエルを演じている人の肌の色が話題になっているらしい。自他の別というのは誰にとっても己の存在に関わる重大事だ。肌の色がどうこうというのは、どうでもいいことのように思う人もいるだろうし、重大事と考える人もいるのだろう。「みんな違って、みんないい」という他人事だからこそ言えるようなキレイゴトを何の躊躇いもなく声高に唱える人がいるが、そんな人の中にもアリエルの肌の色に拘りを見せる人がいるのだろうか。
イギリスで発見された最も古い人骨の一つは約一万年前のものだそうだ。1903年にサマセット州チェダー地方で発見されたので「チェダーマン」と呼ばれている。2018年に大英自然史博物館がチェダーマンのDNA解析を行い、顔面を復元した。皮膚の色は暗褐色で瞳は青だ。
上の記述に従えば、目の虹彩に関しては五千年程度の時間で変異が定着したことになる。身体の各部が等しく似たような変異をするはずはないだろうが、環境の変化に応じて、そこに暮らす生物が適応するのは当たり前だ。日本列島に人類が到達したのは4万年ほど前とされている。1万年前のイギリスの人の肌色が暗褐色なら、最初に日本で暮らし始めた人たちも同じような褐色だったとしても不思議はない。
人は経験を超えて発想できない。例えば日本の神話に纏わる画像では、神々は現在の我々の姿を模して描かれるが、それは我々が我々と交流する相手に対して我々と似たような姿しか思いつかないからであろう。民話などでは異類婚の話もあるが、その異類にしても生活に身近な範囲内でのことであり、全くの荒唐無稽ではない。
そう考えると、「自分」の範囲は結局のところ自身の体験や経験から大きく飛躍することはない。その細やかな「自分」の自己主張だの自我だのは高が知れている。その高が知れた者同士の諍いが積もり積もって暴走して殺戮合戦に至ることは過去にも現在にもしばしば見られる。平和、平穏、友好、友愛といったことに高い価値が与えられるのは、それが希少であることの裏返しでもある。一つの個体が誕生、成長、成熟、衰退、死滅というサイクルを繰り返すのが「自然」であり、その中に当然に「自分」も在るはずだ。現に地球上に過去に現れた生物種の99%が絶滅している。ところが、得てして「自分」をその自然から超越したものであるかのように人は世界を見る。その超越感が自他の別、差別、自意識と繋がっているのは間違いあるまい。つまり、「自分」とか「私」という意識を持つことが「私」の属する世界と対立し、その破壊に向かい、結果として「私」自身を滅ぼすという矛盾が、よく宗教で言われるところの「原罪」なのだろう。
我々ホモ・サピエンスが地球上に登場したのは約20万年前のアフリカ大陸、というのはしばらく前から変わっていない見方である。その当時のアフリカ大陸の自然環境、特に日射の状況が現在と同じであるとすれば、皮膚の色は現在のアフリカの人々と同じであったはずだ。皮膚の色がそこから変化したのは、人類の移動に伴って生活環境が変化したことに適応した結果だろう。
現時点ではアフリカ起源という点は確定のようだ。
我々ホモ・サピエンスは20万年前から他種と交雑することなく今日に至っているはずはないだろう。かつては、一時期併存していたはずのネアンデルタール人やクロマニヨン人などホモ・サピエンスと別種の人類との交雑は無いとされていた。しかし、今は交雑があったことがDNAなどの解析から明らかになっている。そもそも源流を遡れば同じもので、どこかで何かの事情で分岐し、あちらは滅び、こちらはたまたまこうしているというだけのことだろう。こちらはこちらの自意識に従い、こちらの都合で発想し思考するので、どうしたって進化の頂点に己を置いて、そこに至るまでに存在したであろう過去の種や別の種を自分の下に見る。科学としては、それはマズイのだろうが、人情としてはどうしたってそうなる。そういう利己主義の下に生を営むのが、当たり前の生物であり、その「自然」であると思う。
それで「みんな違って、みんないい」だが、そういうことを声高に唱える人は「私は違って、私はいい」と本当は言いたいだけのような気がする。