夏目漱石 『こころ』 新潮文庫
『痴人の愛』とともに手元に残った一冊。
若いなぁ、というのが本書を読んでの感想。漱石は49歳で亡くなっているので、若いには違いないが、漱石のみならず漱石が生きた時代もそういうものだったのだろう。自分が初めて漱石を読んだのも若い頃だ。そのとき何を思ったのか、まったく記憶にないが、あらすじには覚えがある。しかし、今こうして再読すると、本書が執筆された時代と今との間につながるものが見えてくる気がする。
学者ではないし、その時代を生きたわけでもないので、単なる感想に過ぎないのだが、本書の中を生きている人々の暮らしを支えているものは何だったのだろうか。主人公は学生で、学費は親掛かりだ。主人公が敬愛する先生は、主人公がそう呼んでいるだけで、所謂「先生」ではなく漱石の他の作品にも登場する高等遊民だ。家作があって、そこからの上がりで暮らしが立っていることになっている。そういう話が新聞の連載小説になるということは、そこに読者を惹きつけるに足る現実があったということだろう。
その現実とは、明治という新しい時代を象徴するものとしての、恋愛という関係性の在り方と、高等遊民という生き方だろう。そりゃ暮らしを立てるのにあたふたすることなく己の感情や欲求に任せて生きることを憧憬するのに不思議はない。
ふと、原子の構造が思い浮かんだ。原子において正に荷電した陽子と負の電子が荷電という点に関しては均衡する。原子の場合は、そこに荷電に関して中立な中性子が同居しているが、原子としての安定性という点においては、中性子と陽子とが引き合う力学的関係が重要になる。物性を決定するのは陽子の数だが、そこに外部から原子の破片としての電子とか中性子が不意に現れて、均衡していたはずの電子や中性子を弾き飛ばしてしまうと、陽子と電子の均衡、陽子と中性子の均衡がたちまち崩れて原子は動揺を始める。改めて安定へ向かおうとする結果、原子は分裂して、それぞれ別の物質になって存続を目指す。しかし、一度分裂してしまったものがそう簡単におさまるはずもなく、一応の安定を得るまでに何度も分裂して、その度に物質は変化していく。
先生とKとの間にある種の均衡が成立して一応安定した関係が成立していた。そこに下宿のお嬢さんが現れて先生とKとの間が動揺する。やがて先生とお嬢さんとの間で均衡を得て、その関係については一応安定するが、Kはそれまでの関係を失って崩壊する。それが先生の在りようにも動揺をもたらし、時間はかかったが、先生も崩壊する。おそらくそれが主人公の在りように動揺を与え、、、と動揺の連鎖が続く。
人は物質だ。原子の塊だ。約37兆(ちょっと前までは60兆と言われていた)の細胞で成り立ち、それぞれの細胞がどれほどの原子で構成されているのか知らないが私の狭隘な頭脳では想像もつかない数の原子で成り立っている。つまり、人は所詮ツブツブだ。自分で思っているほど確かな存在ではないが、自分が思っている以上の自意識を持っている。近頃AIが話題だが、機械装置も物質だ。原子の塊だ。機械装置に意思があるのかどうか知らないが、あるとしても不思議はない。でも、身近な機械が勝手に動作したら気持ち悪いと思うだろう。そういう意味では、人が、自分が、自意識を持って生きているのも、他所から見れば気持ち悪いかもしれない。
花見の時期に、他人から「偏屈の源助」と呼ばれている人物が世間が花見で浮かれているのに背を向けるかのように大阪一心寺の墓地に酒肴をぶら下げて墓見に出かける。墓といえども、どうせなら女性の墓の前で飲み食いをたいとそれらしい墓を探し、腹が膨れて帰ろうとするときに地面の盛り上がっているところがあるのに気付いて卒塔婆で掘り返してみると髑髏が出てくる。それを前にこんなことを言うのである。どのような容姿であれ、どのような人生であれ、最後は骨になり、さらに時間が経過すればそれも別の姿に変わってしまう。人はその表層=皮に迷いあたふた生きるのだという。
江戸時代に活躍した陶芸家の尾形乾山は、その活躍を誰も知らない江戸の長屋の一室で人知れず亡くなった。辞世の歌のようなものを残して。
本作で漱石が本当は何を語りたかったのか知らないが、先生もKも、そして主人公も、まぁそうムキにならず、ちょっと一服しましょうよ、という気になってしまった。
見出しの画像は大阪の一心寺。山門を通して念佛堂を望む。撮影日:2020年11月15日。落語の舞台になっているところには足を運ぶことにしている。大阪でまだ訪れていないのは、和光寺(阿弥陀池)と池田というところ、くらいかな。