片岡千歳 『古本屋 タンポポのあけくれ』 夏葉社
本書はエッセイだ。古書店を営む著者が日々思うあれこれを綴っている。ただ、書いた本人も、その古書店も今はもうない。以前読んだ『昔日の客』も古書店の店主が書いたエッセイ集だ。古書に限らず古物を扱う人は、世間的には用済みとなったものに改めて価値を見出す、或いはそこから改めて価値を創造する目利きである、と思う。古道具屋の坂田さんだってそうだ。みんなすごい人たちだ。そういう人たちが書く文章は、なぜかとても柔らかだ。そういう文章が書けるようになったら、茨木のり子に「ばかものよ」と叱られない程度に人としてはかなり上等なのだと思う。
古書店との付き合いはない。そもそも本はあまり読まないし、ましてや贔屓の作家などない。ガクモンにも縁がないので資料とか史料を探すこともない。そんなわけで古書店に行く理由がない。そういう自分との距離感から、古書や古物を扱うということについて多少過度に憧れのようなものを抱いているところはあると思う。
近頃は書店が減っているらしい。つい最近も近所の駅前書店が閉店した。かなり個性的な品揃えだったが、それに応える需要がなかったのだろう。同じ地域に住まう者として寂しく情け無い。
個人としては書籍の購買の七割程度をAmazonに依存しているという現実もある。品揃えに関して他の追随を許さない絶対的な存在だ。そういうところと同じ市場で商売をしないといけないのだから、古書店であろうと新刊書店であろうと余程のものがないと生業として成り立たないのは当然だ。しかし、本書の著者が営んだ古書店が閉店したのはご本人の高齢と後継者がなかった所為であって、商売そのものがどうこうということではないようだ。
商売について、よく贔屓とか常連とか、固定客の確保を語る向きがあるが、イマドキそんな情緒的なものがどれほど頼りになるものなのか。もちろん業態による特殊性はあるはずなので、「商売」と一括りで語ることはできない。ただ、これまでもさんざん書いているが、世界は人間の断片化へ向かって直走っている。本書はそういう大きな流れのなかで、自分が「これだ」と思える生業を見い出し、アルバイトで家計を補い、地域や古書業界の行事にも積極的に参加し、古書店の経営だけでなく歌人としても活躍した人が書いたエッセイだ。面白くないはずがない。
よく「幸福」についての語りを見聞する。大抵は薄っぺらなものだ。本書を読んで思ったのは、幸福とは幸福であることを感得する能力であるということだ。ナニがあるから幸せ、カニが無いから不幸せ、というような物事の存在の有無に依存した発想では、ナニの次はカニ、その次は、、、と際限のない欲求に囚われてしまい、おそらく永久に満足を得ることはないだろう。小林秀雄が『当麻』の終わりの方で
と書いているが、同じように「幸せな暮らしがある、暮らしの幸せという様なものはない」と言えるのではないか。世間では「コスパ」がどうこう「タイパ」がどうこうと喧しいが、馬鹿じゃないかと思う。
個人的には還暦を過ぎて、身の処し方を考えることが多くなった。残された人生を豊かにするのは、結局はこういう忘れ得ぬ物語や人との出会いしかないとは思う。たまたま最近入院して感じたのは、消えゆく自分を支えるのは個別具体的なあれこれではなく、不定形で確かな想いだけだということだ。一週間ばかりの時間だったが、何も為すべきことのない静かな時間で、残りの人生の指針がわずかに鮮明になった気がした。