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梯久美子 『戦争ミュージアム 記憶の回路をつなぐ』 岩波新書

著者は1961年生まれ、私と同世代だ。ノンフィクション作家として戦争に関連したテーマの作品をいくつも書いている。そのあたりの興味の対象というのは、たぶん私世代の共通項である。今はこういうSNSの界隈やマスメディアで「独立国」として「わが国」はどうこう云々という物言いを見かけるが、いつからそんな立派になったのか素朴に不思議に思ってしまうのである。敗戦国なのだから、戦勝国が拵えた秩序の中に否応なく組み込まれて然るべきであり、戦争に負けるとはそういうことだと思うのである。

私世代の幼年時代は、世の中全体に欠乏感というか、ビンボーな感じが残っていて、テレビ番組なども自前のコンテンツで放送枠を埋めることができずに、主に米国の映画やドラマが吹き替えで放映されていた。その物語の世界では人は大きくて綺麗でさまざまな電化製品に彩られた家に住み、小洒落た服を着て大きな自家用車に乗って暮らしているのである。後になってみれば、それはやはり作り物の世界であって、あちらも戦争ではそこそこ大変な思いをしていたということを知るのだが、何と言ってもこちらはガキなので、粗末な家で、親戚の年長の子のお下がりの服を着て、ようやく手に入れたテレビを観ながら、大きくなったら自分もあんな小綺麗な暮らしができるように頑張ろう、なんて思っていたに違いない。

ところで、先日、駿河台にある明治大学博物館を訪れた。常設されている刑罰に関する展示を見てみたいと以前から思っていた。駿河台という立地なのでいつでも行くことができるだろうと、先延ばしにしていたらとうとう今になった。それで初めて知ったのだが、明治大学の前身は法律学校で、国営放送の朝ドラのモデルになった三淵嘉子はここの卒業生なのだそうだ。

その展示を見てハッとした。古来、「喧嘩両成敗」との法があるが、この「成敗」とは死罪のことだというのである。理由や事情を問わず、喧嘩の当事者は社会から排除されたのだ。何故か。諍いというものは、一旦許容すると際限なく波及し、ついには共同体の崩壊に至るからだろう。時代を遡れば、この国の黎明期の法の筆頭に「和を以て貴しと為す」とあったらしいが、それはお題目のようなものではなく、何をおいても守らねばならぬことなのである。

社会を存続させるためには、成員間の喧嘩や諍いがあってはならない。そのことを先人たちはおそらく経験に基づいて理解していた。確かに、歴史の現実は、どれほど栄華を極めていようと、盛者必衰諸行無常の理の下、共同体は内部分裂で自滅することを示している。ナントカ帝国というものは大概そういう最期を迎えている。他所との戦争で滅ぶ場合にしても、内部に問題を抱えて弱体化したところを衝かれることが多いのではないか。諍いで良い事は当事者には何も無いだろう。それでも人の歴史は諍いに塗り固められている。

我々は諍いをせずに生きることができないのだろう。諍いの最たるものがいわゆる戦争だ。数千年前の遺跡からは鈍器のようなもので打ち砕かれた骨や鏃が食い込んだ人骨が発掘されることがあるらしいし、記録に残る歴史は戦争だらけだ。日本が直接当事国となったものは1945年以降はないものの、日本周辺だけを見ても、朝鮮戦争やベトナム戦争といった大きな戦乱が続き、世界全体に目を広げれば、中東や東ヨーロッパで度々大きな戦乱が起こっており、アフリカや中南米は常に不穏な状況だ。不穏で暮らしに危機感があるから、そういうところから欧米への人の流れが止まることがなく、あちらの選挙では常に移民や難民に対する政策や施策が争点になる。

当然のことながら、時代が下るにつれて戦場で使用される武器は殺傷能力と精度が向上し、戦争のやり方も自ずと変わる。時代に合わせて武器の性能が上がるというよりも、戦争経験の蓄積や破壊殺傷の探究が武器開発に反映されて、科学技術の進歩は兵器開発が牽引しているかのようだ。いわゆる「先端技術」は兵器開発とともにあると言っても良いくらいだろう。

原子力はもともと潜水艦の動力源として研究が始まったものだし、コンピュータが最初に実用に供されたのは砲弾の弾道計算で、インターネットは核戦争で世界各地が荒廃した場合の通信の確保のために研究開発されたものだ。今やコンピュータやインターネットは当たり前の社会インフラになり、原子力は近いうちに化石燃料を上回るエネルギー源になる。兵器開発は戦争という特殊な状況のために行われているのではなく、我々の日常の内にある。

今年のノーベル平和賞は日本原水爆被害者団体協議会が受賞した。代表委員の田中熙巳は受賞演説の中で興味深い指摘をしている。

生き残った被爆者たちは被爆後7年間、占領軍に沈黙を強いられました。さらに日本政府からも見放されました。被爆後の十年間、孤独と、病苦と生活苦、偏見と差別に耐え続けざるをえませんでした。

ノーベル平和賞 授賞式 日本被団協 田中熙巳【演説文】2024年12月11日より

運動の結果、1957年に「原子爆弾被爆者の医療に関する法律」が制定されます。しかし、その内容は、「被爆者健康手帳」を交付し、無料で健康診断を実施するという簡単なものでありました。
 さらにもうひとつ、厚生大臣が原爆症と認定した疾病にかかった場合のみ、その医療費を支給するというものでありました。1968年になり、「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」というのを制定させました。これは、数種類の手当てを給付するということで経済的な援助を行いました。しかしそれは社会保障制度でありまして、国家補償はかたくなに拒まれたのであります。

ノーベル平和賞 授賞式 日本被団協 田中熙巳【演説文】2024年12月11日より

あの戦争では敗戦の可能性が濃厚になるにつれて「一億玉砕」が声高に叫ばれるようになったという。「一億」即ち国民全員が玉砕したら後に何が残るのか。それは単なるスローガンであるにしても、戦争被害が社会保障の枠内に押し込まれ、一般の疾病と同等の扱いしか認められないという現実がこの国の国家権力と国民との関係を雄弁に語っている。権力は何のために存在するのかという国のあり方に対する認識がここには無い。それでも「クニ」という共同体が2,000年近く続いていることもまた奇跡的なことであるには違いない。

本書にも似たような記述がある。大久野島の毒ガス工場で働いた結果被った健康被害に対し、社会保障すら認めようとしなかったらしいのである。

 軍属として工場で働いた人たちには1954(昭和29)年から公的な救済が始まったが、徴用工や動員学徒、勤労奉仕などの民間人に対して医療手帳の交付と医療費の支給が行われるようになったのは、1975(昭和50)年のことだ。国からの命令で作業に従事したにもかかわらず、患者として認定されるための条件はきびしかった。

8頁「大久野島毒ガス資料館」

満蒙開拓にしても似たようなことがある。

 満蒙開拓団について調べ、考えるときに、必ず突き当たるのが国策という言葉だ。満州は王道楽土の理想郷であると教えられ、国の勧めにしがって海を渡った農民たちは、豊かな暮らしを手に入れ、同時に国民としての義務も果たせると考えたに違いない。
 だが、かれらは戦後、国とは何か、国策とは何かという問いに直面せざるを得なかった。それは現代を生きる私たちにとっても、国家と個人の関係をめぐる重い問いである。

164-165頁「満蒙開拓平和記念館」

このところ選挙が続いた所為もあって、余計に感じるのかもしれないが、人は己の目先の利害に惑わされることなく行動することはできないし、その結果として己の生存が脅かされることになっても、その危機の原因が自分自身にあるなどとは夢にも思わないものなのだろう。国家が政策の失敗によって国民に損害を与えても、そこに「責任」などというものを認識することはないし、その損害から遠いところの同胞も明日は我が身と感じる感性も知性もなく、不都合な現実には目を瞑り、浅薄な夢を追って喜怒哀楽に耽る。たぶんそれこそがいわゆる「幸せ」というものなのだろう。

「幸せ」の正体見たり枯れ尾花
しあわせの しょうたいみたり かれおばな

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熊本熊
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