中西進 『新装版 万葉の時代と風土 万葉読本 I』 角川選書
万葉集に限らず、文学にまつわる語りは熱いものが多い気がする。短歌や俳句の雑誌の定期購読を止めることにしたのは、そういう熱さに馴染めなかった所為もある。
それで、常日頃から漠然と疑問を抱いているのだが、世に「学者」とされる人々が万葉集とか記紀とか、それらにまつわる人々について語るとき、妙に熱いのはなぜだろう。梅原猛の『水底の歌』を読んだ時は、なんだかこちらがハラハラしてしまった。「せ、せっ、先生、そんなに熱く断言してしまって大丈夫ですかっ」っていう感じで。ハラハラするのは、私が学界での共通認識に疎いからというだけのことで、先行研究の蓄積というコンテクストの中での議論においては断定調の方がむしろ自然なのかもしれない。それにしても、人の心の中のことは確かめようがないではないか。ま、自分にとってはどうでもいいことだが。
その点、本書は自分としてはフツーに読み進めることができた。中西の著作を読むのは初めてではないし、万葉集についてはわずかながらも予備知識があるので、本書はけっこう気軽に読み始めた。ただ、あるところにきて、はたと止まってしまった。189ページ、「万葉集と都市」という章だ。
都市というのは、経済史的には、土地の生産力と無関係に人口が集積する集落である。つまり、そこに集まる人口を養うに足る物資も集めることのできる権力が存在していないと成り立ち得ない人間の住まい方である。万葉集成立の前から、この国には「ナントカ京」と呼ばれる都市が成立していることになっている。そもそも「天皇」の仕事の一つは都の造営であった。天皇が即位する度に自身の都を造営していたことになっている。それが権力の増大とともに都も大規模になり、ついには一代で完成させることのできないほどの規模になった。そうした権力の成長過程を象徴するのが平城京だった。平城京は中国の西安のような都城を範とする碁盤のような都市計画によるものとされているが、実際には未完のまま首都としての使命を終えたらしい。
未完成であるとしても、それまでの都とは比較にならない大都市であったことは確かなようだ。そういう都市を構想できるほどに中央権力が強大になったということを考えないといけない。それまでの都であった藤原京から平城京への遷都の詔が出されたのは和銅元年(708年)のことだ。この「和銅」という元号は、秩父で和銅(ニギアカガネ)と呼ばれる銅塊が発見され朝廷に献上されたことを祝い、慶雲から改元されたものらしい。この和銅で通貨が鋳造された。日本で最初の流通貨幣と言われる和同開珎である。
つまり、自前の通貨の獲得と首都の規模の跳躍が重なっている。今まで考えもしなかったのだが、貨幣経済を確立することは権力の試金石であり、それが可能である権力が存在することは、当然にその権力を擁する共同体の言語も「国語」と称することができるような共通言語が確立されているということになるのだろう。通貨と言語は関係がある、ということだ。それまでの漢字漢文一辺倒の公文書や文芸ではなく、非公式かつ万葉仮名ながらも後に「万葉集」と呼ばれるようになる「日本語」の歌集が大々的に編まれたことは、貨幣経済の普及と大都市の成立と併せて考察されて然るべきことなのである。
現代に生きる我々は当たり前のように通貨を遣り取りし、当たり前のようにそれの価値を認識している。ただの紙切れや金属片に何事か呪いのようなものが刻印されているというだけで、我々はそれを崇め奉るのである。不思議なことだ。しかし、人間の歴史の最初から通貨が存在していたはずはない。通貨が登場した頃はどうだったのだろう、と思うのである。万葉集の歌が詠まれたのは日本に自前の貨幣が流通し始めた時期でもある。
現代に生きる我々は当たり前のように言葉を遣り取りし、当たり前のようにそれの意味を認識している。ただの音や文字に何事か意味や感情のようなものが込められているというだけで、我々はそれを自分にとっての一大事と認識するのである。不思議なことだ。しかし、人間の歴史の最初から言葉が存在していたはずはない。言葉が登場した頃はどうだったのだろう、と思うのである。万葉集の歌が詠まれたのは日本に自前の言葉が成立して久しいはずだが、中国大陸や他の外国との交流が当然にあったわけで、現在の我々の日本語と同じではなかったはずだ。少なくともまだ日本語としての文字は確立されていなかった。
おそらく万葉集という大規模な歌集が編まれたことと、和同開珎が流通するようになったこととは関係がある。制度的、政治的に明示的な関係はなくとも人々の心象風景としては関係があったと思わないわけにはいかない。どのような関係があったのか、事細かに語る知見も能力も持ち合わせていないが、中西のこの文章を読んで目から鱗が落ちる思いがした。
それで、先日、和同開珎を拵えることになり、「和銅」という元号のもとにもなった銅の採掘地跡を見に秩父まで出かけてきた。最寄駅は秩父鉄道の和銅黒谷。天気に恵まれたこともあって、いきなり駅に魅了されてしまった。ここにこうして立てただけでもここに来た甲斐があったと満足してしまい、暫く佇んでしまった。
駅から歩くこと数分、セブンイレブンの前を過ぎた辺りで、聖神社の看板が目に入る。この日は娘と出かけたのだが、この駅で下車したのは我々の他に小学校低学年と思しき男の子を連れた男性だけだった。ところが、神社はけっこう賑わっていた。天気の良い週末はこんな感じらしい。
神社に参拝してから、神社前の細い道を山の方へ登っていく。途中、道標に従って山道に入り、数分で銅の露天掘り跡に着く。説明のパネルや和同開珎のモニュメントがなければ、ただの山にしか見えない。尤も、地学の知識が豊富な人には別の見え方がするのかもしれない。秩父はジオパークの指定を受けている。かつてこのあたりまで海だった時代の名残が地質に残されているので地質として注目に値する場所がいくらもあるらしい。
和同開珎については地元秩父の和銅保勝会がウエッブサイトに詳しいことを紹介している。
というわけで、本書についての話を書かないままに文字数を費やしてしまった。書き始めたら頭の中が秩父のことでいっぱいになってしまった。昼は上長瀞駅前のカフェで定食をいただいたのだが、これがとても美味しかった。その中味のことを書き始めると長くなるので旨かったというだけに留める。食事の後、近くの県立博物館を見学し、川縁を散策してから家路についた。博物館から長瀞駅方面へ歩いている間に午後3時となったのだが、街角のスピーカーから公共放送が流れ出した。ここでは午後3時にラジオ体操第一をやるらしい。体操の音楽が始まったので、家々から人々が外に出て体操を始めるのかと思ったが、一見したところ相変わらず静かなままだった。家々の中のことはわからないのだが。
実は、聖神社で「銭神 和同開珎」という御守りをいただいてきた。これで老後は安泰だ。と、言いたい。長々書いてきたが、一番言いたいのはこのことだ。改めて、願いを込めて書いておこう。老後は安泰。…やれやれ。