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菅野康晴 『生活工芸と古道具坂田』 新潮社
『ひとりよがりのものさし』の編集後記のような本。2022年11月に坂田和實が亡くなった後、新潮社の「青花の会」とその周辺では坂田関連企画が続いた。不定期に年3回ほど発刊される『工芸青花』という会員制の機関誌が坂田趣味風の内容であり、その編集長である菅野はかつて月刊誌『芸術新潮』で編集者として坂田関連企画を主導したという経緯がある。
その『工芸青花』も「青花の会」も、過剰に理屈ぽい気はするが、メディアであるのだからテキストの形で情報発信をしなければならないという宿命を抱えているので理に傾くのは仕方がない。それに対し、坂田の個人美術館「as it is」はその名の通りそこにある時間と空間を展示というか提示するものだった。そこにあれこれ理屈を見出す人はいるだろうが、そういうものの矮小さを際立たせる小さくて大きな空間だと思った。
美術批評とか工芸批評というようなものは、結局のところは美術屋稼業における広告でしかないのだろう。だから、そういう批評家が発するものは、どれほど奇を衒ったところで、所詮はポピュリズムに堕ちる。わかる人にだけわかればいい、というのでは「批評家」は商売として成り立たない。資本主義という大きな枠組みの中で市場原理に則って生活を立てるということはそういうものだ。怪しいものを怪しい価格で販売して手にしたカネで怪しく生きる。それが生活必需品の生産から遠いところで生活を営むということだと思う。
本書の最初の方で眼を引く記述があった。
先日、建築家の知人と会っていて、阪神大震災の話になりました。地震のあと、神戸で被災したある旧家の改装を手がけたそうです。依頼主は年配の夫人で、打合せのとき、彼にこんなふうに語ったといいます。「正直なところ、ほっとしました。代々うけついできた、食器がぜんぶわれてくれて」
似たような話を、かつて交際していた人から聞いたことがある。その人の家も代々続く家らしい。その人の祖母が亡くなったとき、その人の母は代々受け継いできた食器の中で特に煩く言われていたものを選りすぐって庭の大きな石に叩きつけたのだそうだ。いわゆる嫁と姑との間に漂う何かがあって、姑の死がその何かを大きく転換したのだろう。それらの食器の破片を集めて危険ゴミの袋に入れる母の様子はそれまでに見たことがないほど晴々としたものだった、とその人は可笑しそうに語っていた。
私の連れ合いの親戚が何年か前に「ナントカ鑑定団」というテレビ番組に出演した。連れの祖父が亡くなった時に形見分けで手にした「おじいちゃん自慢の茶碗」を鑑定に出したのである。自身の評価額は「おじいちゃん」の「三百万は下らない」という話を素直に受けて「300万円」とした。番組の先生方の評価は「3,000円」だった。その番組の放送からしばらく経った頃、盆で連れの実家に帰省した。そこで「おじいちゃん自慢の茶碗」をいくつも見せられたが、話の流れとしてはどうしても「思えば憎し、あの道具屋」という方向へ行くのが面白かった。
その番組に出演している骨董商の眼がどれほどのものなのか知らないが、それはそれとして一つの評価であるには違いない。しかし、それと自分自身のそのモノに対する想いとは必ずしも一致しないだろう。身の回りのモノやコトには自分のそれまでの暮らしや経験に纏わる物語があって、その物語を含めてのモノやコトの価値を自分は認識しているはずだ。価格が形成される市場という場においては不特定多数が参加する。そういう場において自分が価値を認識している個人的な物語は通用しない。それを金額という無機質なもので表現すれば、市場参加者の思惑の間にさまざまなギャップが生じる。そのギャップを埋めるべくモノは所有者を替えて移動する。
おそらく人の幸福というのは市場価値で語るものではなく、自分だけの物語の豊穣さの中で醸成されるのだろう。他人から見ればゴミであっても、自分にとって値千金、あるいはそんな評価で汚すことのできない珠玉の物語をどれほど紡いできたか、というところに生きることの幸せがある、気がする。
こんな坂田の言葉が引用されている。
<先日、根津美術館で国宝の大井戸茶碗「喜左衛門」を見てきました。(略)展示ケースの前で皆、息を殺して見入っていました。ゴクロウサマです。ところでウチで使っている飯茶碗とどちらが美しいかと、恐れ多くも考えてみました。ハッハッハッ、たいした違いはありませんよ。しょせんどちらも土でできている茶碗ですもの。ただし、アチラの方は少しカビらしきものが生えて汚れていましたヨ。それに、ウチの方が飯茶碗としては使い勝手がよさそうなんですワ>
2018年に台北で「日本生活器物展」というものが開催されたのだそうだ。企画は木工家の三谷龍二と茶人の謝小曼で、出展作家は三谷が人選したという。本書にはその展覧会の会場構成と什器等を担当した台湾の建築家、陳瑞憲の言葉が紹介されている。その中でこんなものがある。
「日本の茶道でふしぎなのは、利休の茶には自由を感じるのに、あとの時代はそうでないこと。自由とは美しい言葉です。他人のいうことばかり守っていると、文化は死んでしまいます」
台湾という地政学上の緊張感の強い土地の人だから余計に「自由」というものへの価値にバイアスがかかっているのかもしれないが、それにしても正論だと思うのである。自分の中の怪しいものを叩き壊して自分の文化が死んでしまわないようにできたらいいな、とは思うものの、そもそも自分にそんなものがあったっけ、と少しがっかりするのである。
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