村松貞次郎 『大工道具の歴史』 岩波新書
先日、復刊された岩波新書の『沖縄』を買いに丸善に寄ったとき、たまたま目に入って一緒に買った。結局、あの時は『沖縄』、『沖縄ノート』と本書の3冊を買った。『沖縄ノート』以外は大変面白く、書店体験というのはいいものだと思った。
ところが、世間では書店が次々になくなっている。世界にはそもそも書店が存在しない国がいくつもあるそうだ。刊行物はあるのだが、それはオカミの関係のものとその土地の宗教の関係のものだけなので、書店という商売が発想されないというのである。昔、その話を聞いた時は、そういう国があるということが想像もできなかったが、今はなんとなくそういうことかと思えるようになった。
本書は1973年8月に発行されたものなので、ここで取り上げられている道具類の現状は本書の記述とはだいぶ違ったものになっているはずだ。それでも2022年3月に「限定復刊」として印刷され、今こうして書店に並んでいる。個々の道具がどうこうということを超えて普遍性のある内容があるということだろう。
その普遍性は、道具と時代との関連についての記述や考察にあるのではないか。道具は生活に必要なものを拵えるためのものであり、その必要をどのように満足させるかという発想の表現である。その道具を考案した人々が、世界を、観察の対象を、モノを、人を、どのようなものとして認識しているかの表現である、と思う。
まずは著者の現状認識から始まる。我々の生活は「さっぱりわからないモノ」で成り立っているという。繰り返しになるが、本書が書かれたのは1973年だ。自分自身の暮らしを思い返してみれば、住まいは棟割長屋で便所は汲み取り式、風呂はプロパンガスで沸かしていたが、少し前に数年遡れば薪や練炭を使っていた。テレビはすでにカラーだったが、電話は黒電話だ。バスや電車など近距離の公共交通機関には冷房はなく、石油危機(一次:1973年、二次:1979年)やドルショック(1971年)で経済成長の途上にありながらも乱気流の中を進んでいる感じだった。忘れてはいけない、沖縄の本土復帰や日中国交回復が1972年、時の内閣総理大臣は田中角栄。「日本列島改造論」で大いに沸いていた。いろいろな物価が当たり前に上がり、店先には「諸物価高騰の折、…」という値上げの知らせが常に掲げられていた印象がある。
1965年から1974年まで埼玉県戸田市下笹目というところで暮らしていた。先にも書いたように棟割長屋で、大家は農家だった。田圃を潰して長屋やアパートや建売が建ち、学年が進む毎に農家の子弟の割合が低下していった。それでも、学友の約半数は、峰岸、池上、萩原という地元の農家あるいは元農家の人々だった。喧嘩をする時に相手に対して「ヒャクショー!」とか「ドンビャクショー!」とか啖呵を切るのが当たり前で、時に、どこからか聞こえてくる家庭内の諍いでも、子供が親に向かって「ドンビャクショー!」と叫んでいた。ガラの悪い土地だった。
注目すべきは、農業という生活や産業の基礎にあるものに従事することが軽蔑の対象であったということだ。子供の喧嘩の戯言、と片付けるわけにはいかないと思う。そういう時の啖呵や悪口は、社会集団の意識を反映するものであるからだ。おそらく、急速に産業構造が変化していて、変化の先端に縋りつこうとする集団の意志のようなものがあり、そうした流れから取り残されたと見られていた農業や手工業など旧来の仕事を軽蔑する意識が蔓延したのだろう。
ついでに2004年発行の『ザマミロ!農は永遠なりだ』の一節を引用する。著者は山下惣一さん。佐賀県の農家だ。
ナントカEatsの類いでポチッとやると、指定した場所にすぐに食べることができる状態で食い物が届く。注文した方は美味いの不味いの言いながら、時間通りだの何分遅れたのと言いながら、コスパがどうこう言いながら、そういうものを当たり前に食うのだろう。自分が食っているものを作った人たちのことはおろか、食材の出所にまで思いを馳せている人はどれほどいるのだろう?アプリの出来についてはあれこれ思うかもしれない。しかし今、この瞬間、美味いの不味いのコスパがどうこう以外に、目の前に現れたものの来歴や背景に対する想像力が湧かないとしたら、かなり重い疎外感を抱えて生きているのではないだろうか。つまり、疎外感を覚えるということは、そういうことも関係あると思う。もちろん、人それぞれであるには違いないが。
本書が書かれた当時に比べると「さっぱりわからないモノ」はさらに増えているだろう。しかも、自分がわかっていないことすらわかっていないから、何か不都合が起こると、理不尽な文句を喚き散らす。この調子でいくと、そう遠くない将来に、誰かが無思慮にポチッとやらかして、人類は滅亡するのではないか。人は己の自己顕示欲で身を滅ぼすものだ。後に残ったゴキブリだのボウフラだのが囁き合う。「偉そうにしてたけど、案外、呆気ないもんだったねぇ」
偉そうといえば、ゲージュツの誕生を道具の世界から考察することもできるようだ。世間が何を以って「芸術」とするのか知らないが、差し当たり生活の用に直接寄与しない労働成果とでもしてみるか。美術の教科書ではラスコーの壁画が取り上げられていたりするが、あれは絵画のつもりで描かれたものなのか、何事か実用の必要に迫られて描かれたものなのか。今となっては描いた本人に確かめる術がない。
本書では、室町の東山時代に注目している。足利義政といえば、幕府の権威が大きく揺らぎ、群雄割拠、戦国時代前夜の頃だろう。「ショーグンなんて言われたってさ、ビンボーニンやヤバンジンに興味無いし」ってなわけで、何かと面倒な政治の現実から逃避するかのように遊びを極めるなかから、現在に繋がる日本の美意識が芽生えたのではなかろうか。
そういえば、パパ活に精を出して、何かと面倒な政治の現実を世に明らかにした自民党の議員が話題を呼んでいる。こういうところからも美意識に満ちた文化が生まれるかもしれない。こちらは静岡5区、京都の東山よりはるかにデカい富士山を背にしている。
美意識が盛り上がると、建築は細部の細工にまでこだわるようになる。そうなると細工のための道具や「美しく」仕上げるための道具が必要になり、登場する。本書によれば、そうしたものの典型が、縦挽の製材用ノコギリや台ガンナであり、製図をひいて精緻に組み上げる建築方法だという。
建築に美意識が入り込むということは、それを作る側にも審美眼とそれを具現化する技能が要求されることになる。しかし、ゲージュツカと違って大工には厳しい納期がある。大工の「腕」あるいは仕事の「確かさ」というのは、単に技能が優れているというだけではなく、限られた時間の中で仕上げる能力までも含めてのことだろう。それには本人の才能と努力はもちろん必要だが、道具の良し悪しも大事なことである。
暮らしを立てるというのは綺麗事ではない。それはわかっているつもりなのだが、仕事に対するのと同様に、生き方にも美意識がある、ある人がいる、と思うのである。いや、思いたい。だから、以下に引く千代鶴是秀と大阪の大工の話なんか、とてもいいなぁと思うのである。こういう話に触れると落語の「文七元結」は実話なんじゃないかと思えて、嬉しくなるのである。
見出しの写真は大阪の四天王寺。ここには番匠堂というものがある。その説明は四天王寺のウエッブサイトにあるが「聖徳太子様は、日本に仏教を広められると共に、わが国に朝鮮半島・百済国より番匠と称される数多の名工を招請され、高度な建築技術を導入されました。このご事蹟をお慕いし、大工・建築技術の向上、工事の無事安全を願う建築に携わる人たちの間でお太子様がお祀りされるようになりました」とのこと。
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