『敗北を抱きしめて』 その2
梅毒患者が増えているのだそうだ。ネット上のニュースだけでも「初の1万人超」との見出しがずいぶんたくさん踊っている。
梅毒急増の原因としてはマッチングアプリの影響が多くの記事の中で指摘されている。多くの記事で使われている資料によれば、感染者の年齢分布は女性が20代に集中しているのに対し、男性は20代から40代に幅広く、分布曲線の形状がずいぶん違う。
国立感染症研究所のサイトには2022年第42週(10月17日〜10月23日)のデータが公開されている。第42週時点の梅毒の感染者は累計10,141人で地域別には東京都が2,880人で最も多く、大阪府1,366、愛知県573、北海道443、福岡県409、神奈川県406と続く。マッチングアプリが今年新登場というわけではない。感染機会の拡大に無関係ではないかもしれないが、それが原因ではないだろう。
『敗北を抱きしめて』には敗戦後の世情が様々に記述されている。「第4章 敗北の文化」にはRAAの顛末が記されている。RAAについてはたまたま最近noteでの投稿を見つけた。
敗戦で国土は文字通り焦土と化し、人々の生活など成り立とうはずがない。そこへ外地から引き揚げ者が続々と戻ってくる。生産設備が悉く破壊された直後で、ただでさえ暮らしが困窮しているところに人の数が増えたらどうなるか、語るまでもない。その当時は、金銭ではなく、握り飯でそういうことが広がり出したというのである。この時代、そもそも金銭に信用が無いのだから、物々交換というか物対行為交換となるのも不思議はない。
8月15日の敗戦放送の直後から「敵は上陸したら女を片端から凌辱するだう」と言う噂が広がったそうだ。それはつまり、日本軍が占領地でそういうことをしたという経験の裏返しでもあった、らしい。隣の国の大統領が交代して、今は少し落ち着いたようだが、前の時は従軍慰安婦のことがずいぶん話題に上った。
慰安を求めた方の日本兵がどうなったか、ということを取り上げる日本の映画は少ないのだが、取り上げるとなるとかなり骨太になる。2010年公開の『キャタピラー』という映画を公開当時に映画館で観たが、なかなか強烈な作品だった。監督は若松孝二、主演は寺島しのぶ。同年のベルリン映画祭に出品され、寺島が最優秀女優賞(銀熊賞)を受賞した。
それでその「噂」に日本政府は迅速に対応した。
それでも政府は資金を用意し、警察の協力を与えた。しかしそれだけでは足りず民間からも投資を募った。結局、用意されたのは一億円ほどだったようだ。
ところが、いわゆるプロの女性はこれに応じる者が少なかったという。日本人男性との体格の違いを見て危険を直感したのではないか、という説がある。本当のことはわからない。それで一般公募ということになり、Kazさんが紹介している広告が出たのである。
組織の正式名称は特殊慰安施設協会、英語名がRecreation and Amusement Association (RAA)で、発足の日(1945年8月28日)には皇居前広場で「宣誓」が行われたという。それで、RAAの内実がどうであったかということも書かれているが、それは心ある者ならある程度は想像できるだろう。男性経験が全くない人も少なくなかったらしいが、それが初日からいきなり数十名の米兵の相手をしたのである。逃亡する者が出るのは当然として、発狂したり自殺する者もあった。こうした施策の甲斐があったからなのかどうかわからないが、占領開始段階での強姦事件は皆無ではなかったものの、日本政府の想定内であったという。
ところが、RAAは1946年1月にGHQの命により廃止された。表向きの理由は「非民主的で婦人の人権を侵害する」ということだったが、実際は占領軍内部での性病患者の急増によるものだった。
RAAが廃止されたということは、占領軍の「慰安」が公的組織から私的組織あるいは私的関係に置き換えられたということに過ぎない。先述の「闇の女」の商売相手は殆どの場合、占領軍の兵士だった。結局、人間が生物で、しかも強固な社会性を持っているということは、生物としての行為と社会的関係とが絡みあうことなのである。
『拝啓天皇陛下様』に興味深いシーンがある。戦後、主人公の山田が戦友が暮らす長屋に出入りしていて、そこにいた未亡人に惚れるところだ。その戦友の妻が未亡人に山田を勧めるのだが、未亡人は「あんな人なんか」とつれない。それでも熱心に勧めると「やめてください。家柄が違いすぎます」と言い放つ。戦友妻はカチンときた。直前までの低姿勢から態度が変わって「わかりました。奥さんね、奥さんとあの人とのこと、ここのみんな知ってるんですからね」と返して未亡人のところから出て行く。未亡人は動揺を隠せない。「あの人」とはこのシーンの台詞限りのことで映像には登場していないのだが、今で言うところの「パパ」のような存在か斡旋業者だろう。「家柄」が良くても背に腹が変えられなければ売れるものは売ったということなのである。
『拝啓天皇陛下様』は戦後20年近く経ってから制作された映画なので、こうしたシーンは単に脚色上のことに過ぎないのかもしれない。しかし、荒唐無稽なことが脚色に使われるとは思えないし、マッカーサーに「私を抱いてください」と手紙を書いた人が少なからずいた世情であったのも事実だ。
ついでなので、少し長いが森繁久彌の自伝にある満州からの引き揚げのことも記しておく。上に引用したRAAへの志望動機と同じようなことを考えた人のことだ。
森繁久彌は満洲の放送局の職員だった。彼の実体験に基づく敗戦から引き揚げに至ることに関する記述については記しておきたいことがたくさんある。引き揚げという切羽詰まった状況で人は「我利我慾の鬼」と化したとあるが、そのような特殊な状況にならなくても、公共交通機関の車内や施設構内、あるいは路上で、己の矮小な欲求のために他人の迷惑を顧みることなくスマホやタブレットに形相を変えて夢中になっている我利我慾の鬼は現代の巷にも溢れている。それが少しでも切羽詰まったらどうなるか、想像するまでもない。
自分が生まれるわずか17年前のことなのに、人々が焦土で何を思い何をしたのか知らない。飢えに苦しんだ人々がどのようにして日々を耐えのか実感としては何もわからない。今こうして生活が成り立っているのは、多くの人々の善良な志の賜物であるには違いない。しかし、それだけとは思えないのは自分が善良ではないからか。とりあえず、物質的には豊かである、と断言できると思う。「クソとカネは溜まるほど汚い」という言葉があるのだそうだ。