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ジョン・ダワー 著 三浦陽一・高杉忠明・田代泰子 訳 『敗北を抱きしめて』 増補版上下 岩波書店

何から話を始めたらよいのか、整理がつかない。本書は米国の歴史学者が記述した第二次大戦後の連合軍占領下の日本の姿である。この時代を自分自身は経験していないが、自分の両親も祖父母も親戚その他身近な人々もこの時代を生き抜いており、そのことは自分のアイデンティティ形成に少なからず影響があるはずだ。本書の記述で驚くようなことはなかったが、思考を刺激されることはたくさんあった。何がどう刺激されたのか未だ整理がついていないが、読んでよかったと心底思っている。

選挙など、事あるごとに思うことだが、民主主義とは何だろう。生活の諸問題を誰もが当事者として良識を持って真剣に考え、責任をもって意思決定を重ねていく、というのが私の持つイメージだ。換言すると、民主主義とは幻想ということになる。なぜなら、現実はそうではないし、そもそもそのような「民」はいないからだ。殊に日本の場合、戦勝国の占領方針として他所から降って湧いたような「民主化」であったという矛盾がある。

本書によれば、戦勝国の側にもそうした矛盾は認識されていたらしい。しかし、戦勝国間での東西対立が深刻化し、地政学上の不穏な動きが広がる中で、米国、殊に占領軍GHQの総司令官として日本の戦後処理に大きな責任を負うマッカーサーは、日本の「民主化」を急いだ。そのため、天皇の戦争責任を不問とした上で、日本に「民主国家」としての体裁を整えるという策を打つ。天皇の戦争責任を問わないというのはかなり無理があるのだが、GHQは天皇の「神秘的な指導力や、神道の信仰があたえる精神的な力」を占領統治と戦後体制構築に有用と考えたようだ。戦争の実態として、日本にポツダム宣言を受諾させたのは米国と言っても過言ではなかった。矛盾があろうがなかろうが、対日占領政策は実質的に米国の専管事項となっており、その米国が天皇の戦争責任を問わないというのなら、連合国の総意として押し切ることができた。「総意」としての体裁を整える象徴が極東国際軍事裁判(本書では「東京裁判」と略称)だ。

東京裁判(1946年5月3日 - 1948年11月12日)は今次大戦において戦勝国が敗戦国の戦争犯罪を裁くものとして、ナチスドイツに対するニュルンベルク裁判(1945年11月20日 - 1946年10月1日)に続くものだが、単純には比較できない。裁判の期間、関係者の数、裁判資料、その他どれを取っても東京裁判の方がはるかに大規模だ。ところが、ニュルンベルク裁判では公表された法廷議事録が東京裁判では公式記録が一切刊行されなかった。つまり、「公式」に記録を残したくないような裁判だった、ということらしいのだ。その根本原因は、裁かれるべき権力中枢を裁判の対象から外しているため、訴訟のロジックが成り立たないということだった。

ヒトラーとその腹心たちに相当するような指導者集団が日本にはなかった(「共同謀議」が行われたとする全期間を通して権力の中心にいたのは、じつは、天皇裕仁だけである)。ナチ党と、その下部にあったゲシュタポやSSのような組織(このおかげで、ドイツのケースでは共同謀議の主張が容易だった)に相当する組織もなかった。
下巻 253頁

当然、裁く側の当事者には当惑を露骨に示す者もいた。インドのパル判事の全被告無罪との主張は有名だが、オーストラリアのウェッブ判事とフランスのベルナール判事も天皇不起訴が裁判の正当性を損なうものと批判した。

日本による「平和に対する罪」には、「そこにひとりの主要な惹起者があり、その者が一切の訴追を免れていることで、本件の被告は、いずれにしても、その者の共犯者としてしか考えることができないということで」あった。天皇を「違った基準で」測ることで、これらの被告に対する訴訟が阻害されたばかりか、国際司法の意義も損なわれたとしたのである。
下巻 254-255頁

米国とGHQが天皇を「平和主義者」であるとして戦後体制構築の要に据えようと運動していることは連合国の間では周知のことであった。しかし、敗戦処理の主要な象徴の一つである東京裁判で判事団の間からこのような批判が大っぴらになされたことで日米とも迅速に反応した。天皇はマッカーサーに書簡を送り、退位するつもりがないことを宣言。東京裁判の主席検察官キーナンは、天皇を戦犯として裁く根拠がないと改めて言明。そして、キーナンは皇居に招かれて天皇と差し向かいで昼食を共にした。A級戦犯として被告になっている者たちも天皇を守ることで団結し、暗黙裏に裁判所と結託した。

ウェッブ判事とベルナール判事がそれぞれの意見書で強調したように、証拠に関するもっともあからさまな操作は、そこから天皇を遮断しようとする検察側の運動だった。この法廷では、そこに天皇が物理的に不在だったこと、天皇について証拠となるようないかなる論及も入念に排除されたことだけでなく、天皇による証言の欠如もまたきわだった特徴だった。天皇を救うためのこの「勝者の証拠」操作に相当するものはニュルンベルクにはなかった。さらに、天皇の証言があれば何人かの被告にとっては有利だったはずなのに、弁護側からも異議申立てはなかった。
下巻 264頁

先日、本書と同じ著者の『容赦なき戦争』について書いた中で、「日本人絶滅政策」について触れた。戦争中の米国の国民感情としてそういうものがあったのは事実らしい。しかし、立場や状況が変われば思考も変わる。変わるけれども闇雲に変わるのではない。戦争相手国を仔細に研究した上で、相手国民の心理分析に基づく現実的な占領政策が探求された結果として変わるのである。本書には次のような記述がある。

 なかでも最重要の人物は、マッカーサーの軍事秘書官であり、心理戦の責任者でもあったボナー・F・フェラーズ准将である。フェラーズは、1934年から35年、フォート・リーベンワースの幕僚学校に陸軍大尉として在籍中に日本人の心理分析を始め、そこで『日本兵の心理』と題する研究報告をまとめている。その内容は先見性があるもので、彼自身にとっても忘れられない研究成果となった。この報告は、日米開戦を4年以上も前に予測していた。しかも戦況が悪化すれば日本は神風特攻隊のような戦術を採用するだろうとさえ予言していたのである。フェラーズは第一次世界大戦での米兵の脱走率が高かったことと比較して、日本人の忠誠心と日本兵の規律正しさが際立っていることに感銘を受けた。フェラーズの結論によれば、「まるで数百光年の距離をへだててそれぞれ違う世界に生き続けてきたかのように、今日の日本人とアメリカ人はものの考え方が異なっている」。また、欧米の民主主義を、日本人は「一時的な性格のもの」とみなしているとも述べている。1944年夏、マッカーサー司令部は、戦場の日本兵に投降させる試みを本格的に始めた。それにあわせて、フェラーズは『日本兵の心理』を改訂して『日本への回答』という報告書を作成した。この報告書は、それ以後、連合国軍の諜報担当者のための入門書として使われることになる。また、フェラーズは「今日でも私はこの報告書の一行たりとも変えるつもりはない」と語っている。
下巻 7頁

GHQが天皇の戦争責任を不問とするという基本方針は、マッカーサーが1945年9月に日本に来てから決められたのではなく、フェラーズのような分析官たちの研究に基づいて1944年半ばの段階から固まっていたようだ。それゆえ、同年11月から本格化する日本本土への徹底的な空襲においても皇居は意図的に爆撃目標から外されていたらしい。そればかりではなく、宣伝戦においても天皇を攻撃して日本人をいたずらに挑発するのを避けていたというのである。つまり、戦後の占領統治において天皇を利用することが1944年夏には決定していたということだ。

公平、公正、fairなどと喧しいのは、現実がそうではないからだ。当たり前のことをわざわざ言語化したりはしない。本書にあるのは第二次大戦の戦後処理を巡ることだ。現代に続く起点ともなっている戦後体制構築の第一歩が日本の「民主化」であったが、本書を読むことで民主主義とか民主的ということがますますわからなくなった。そして何より、あの戦争は何だったのだろうとの疑問は一層大きなものになった。

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