温泉と牧場と山の上 ~都道府県シリーズその3 岩手~

「最後まで付き合えなくてゴメンナサイね。どうしてもシフト休めないから。今晩から11月まで7日連続勤務なのよ」
「わかってるよ。ハロウィンを前にした稼ぎ時だよな。ニコールはビアパブの店長だから仕方ない。仕事頑張って。この仕事終わったら明日の夜は東京に戻る。すぐにそっちに行くから」

 そういって西岡信二は、ニコール・サントスを盛岡駅で見送った。ニコールが責任者である店の常連だった信二。ふたりはいつしか交際を続けていた。それだけではない。最近は温泉ライターの信二の現地取材にニコールがついて来ることがある。取材の合間はデートそのもの。ちょうど秋が深まる今回も、岩手にある二か所の温泉取材に来るついでに、ニコールがついてきたのだ。

 新幹線の改札の前で手を振るニコールを笑顔で見送った信二は、ひとりになった瞬間。何とも言えない寂しさを感じ取る。「いっちゃったか。さて、いまからはひとり」と小さくため息をつき、駅の駐車場に止めてあるレンタカーに戻る。

 停めてある車の運転席に乗り込みエンジンをかけた。そして周囲を確認してゆっくりとアクセルを踏みこむ。そして車が動き出す。こうしてハンドルを操作しながら信二は、ニコールとの1日半を思い出した。

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「岩手県は初めてね」「そうか、俺は3回目かな」お昼前に盛岡駅に到着したふたりは、駅前で予約しておいたレンタカー屋に行く。
 信二の運転で最初に向かったのは、盛岡の郊外にある小岩井牧場のまきば園。ここはニコールが一度行ってみたいといっていたところ。
 牛舎ライナーと言うものに乗り、生産現場である牛舎に到着。これは100メートルの長屋のような建物で、国の重要文化財に指定されているという。 
 そしてその前では数頭の乳牛が外で散歩をしていた。思い思いにピュアで天真爛漫に行動する乳牛たち。
「やっぱり生きている牛はいいわぁ」それを見ているニコールは、普段見せないような笑顔で眺めている。信二はそんな彼女を見ているだけで楽しかった。
「本当に広い場所だなあ」「普段の町中での生活が本当に窮屈だわ」と広大な敷地内で数時間もの間、ゆったりとしたデートを満喫する。

 夕方、近くにある鶯宿温泉(おうしゅくおんせん)に向かう。ここは信二の取材も兼ねての宿泊。だからここに来ると顔つきが変わった。ニコールもそこは理解しているようで、先ほどのようにはしゃぐようなことはしない。「なんでも言ってね」と取材の協力を買って出るほどだ。信二は「ありがとう」声をかけながら、部屋の調度品や旅館の館内にある必要なあらゆるものをチェックして、カメラに収めていく。

 大浴場での撮影は他の宿泊客がいるからできない。入り口の様子だけを撮影して後はメモを取る。特に大事なのは温泉につかること。硫黄泉と言う温泉の泉質などのチェックも必要だが、やはり実際に入ってみて感じたことを書くことが重要である。
「450年前に加賀から移住した男が見つけた温泉か」 信二は旅館の湯につかった。硫黄泉と言うだけあって、確かに玉子が腐敗しているように感じる独特の匂い。だが元々温泉好きが高じて今の仕事をしている信二にとっては、むしろ大好物のアロマである。
「湯の温度もちょうど良い」そういいながらゆっくりと体を湯船に沈めていく。仕事で調べなければいけないことはこの後もあるが、湯船につかっている瞬間だけは、そのことを忘れさせてくれる。
 ただ「ニコールちゃんと湯につかっているかな」と、彼女のことだけは忘れていない。 

 もちろん湯上りの夕食も重要な取材ポイント。見た目もさることながらひとつひとつの料理の味わいも、しっかりとチェック。メモに取りながら五感でのインパクトをと脳裏に焼き付けた。こうして翌朝の朝食までが取材。すべてを終えると、少し早い目のチェックアウトを済ませる。

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「お昼までがタイムリミットだね。よし今から景色の良いところに行こう」と、信二はニコールに行き先を告げず、そのまま車を動かした。最初は盛岡の中心部を目指していたが、やがて進路を変えて北方向に。高速道路に乗った。左手に岩手山があるはずだが、あまりよく見えない。やがて高速のインターチェンジをを出てこんどは山道を西方向に進んだ。

 一本道は両側に森が壁のように突っ立っていて視界が悪い。ニコールは何か気になったのか、窓を左右に首を振りながら除いている。「あれ、どんどん山の中に向かっていない?信二どこ行くの」まだ場所を教えていないためかニコールが不安そうに声を出す。

「もう少ししたらわかるよ。そういって信二はハンドルを時折左右に動かして車体のバランスをとった。見晴らしの良い道をまっすぐ進み、やがて山の勾配があるのが車に乗っていてもわかる。そして急カーブが続く。

 やがて「八幡平(はちまんたい)」と書いてある看板が見える。「あ、八幡平だ!」ようやく行き先がわかって安心したのか、ニコールに笑顔が戻った。
「山の上、見晴らしの良いところに行くのね」と、ようやくニコールは笑顔で信二のほうを向く。信二は運転をしながら、一瞬ニコールのほうに顔を向ける。そして笑顔で頷いた。

 車は「八幡平アスピーテライン」と、名付けられた道を登っていく。徐々に見晴らしも良くなってきた。幸いにもこの日は天気が良い。上空を見るとパンの形をした綿のような雲が、いくつかゆったりと浮いている。その下で車は山を登りながらいくつかの曲がり道を軽快に走っていく。やがて視界が完全に開けているところに来た。遠くに高い山が見える。
 ニコールが運転している信二のほうを定期的に見つめた。信二は黙ってハンドルを握っている。そして鋭い視線を正面に向けていた。しかしどことなくこの軽快なドライブを楽しんでいるようにも見える。実際に信二は何かリズムをとっているかのように、全身を上下に動かしていたからだ。

 こうして車は八幡平山頂駐車場に到着する。ピークは過ぎたようだが、紅葉の名残が残っていた。車を駐車場において遊歩道を歩く。全部歩くと結構時間がかかるということで、ある程度セレクトしたルートを通った。
 駐車場から最初に目指したのは見返り峠。そこから北に道を変えて八幡平山頂を目指した。途中の展望台からは、八幡沼が水をたたえている。「本当はこの季節ではなく、春ごろにくればもっと絶景らしいけどな」「でも、これでも十分だわ。アー東京に戻りたくない」と思わず愚痴をこぼすニコール。信二はニコールの手をやさしく握った。

 そして最後に到着したのは八幡平山頂。先ほどの沼とは違う広大な空間が広がっていて、遠くに山が見える。「ここもいいなあ」信二は思わずスマホを取り出して撮影した。その横でニコールは、この空間の空気を取り込むかのように大きく両手を開ける。そしてゆっくりと深呼吸した。

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「実はもう一か所行きたいところあるんだ」と、駐車場に戻ってきた信二がつぶやく。
 ニコールは時計を見る。「11時10分か。あ、1時間くらいなら。多分大丈夫。お昼ごはん諦めよう。ギリギリになっちゃうかもしれないけど、いいわ」

 ニコールの了承を得た信二は車をさらに先に進めた。わずか数分で到着したのは、藤七温泉と書いてある一軒宿。
「ここは今回の仕事とは違うけどせっかくだから」と言って車を停めた。宿泊施設であるが日帰り入浴もできる。
「じゃあ、45分後ね」と笑顔で手を振るニコール。
 こうして館内にある大きな露天風呂で、信二はゆったりと湯につかった。「ここは10月末で終わりだからな。ギリギリだけど来れてよかった」昨夜の旅館と違い、純粋に温泉ファンのひとりとして絶景を見ながらのひととき。だがあっという間に時間となる。

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「無理言って、露天風呂に入れさせてもらったけど、良かったよ。でも盛岡名物のじゃじゃ麺食べられなかった。ニコールは今頃駅弁食べているかな。俺は中途半端だし夜まで我慢するか。さて今からは花巻の鉛温泉だ。よし、ひとりでもうひと仕事がんばろう」と運転しながら、気合を入れる信二であった。



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シリーズ 日々掌編短編小説 298

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