ぬいぐるみを入院させるんだ！ 第907話・7.19
「それ、部屋においていたぬいぐるみでは？」今日は休日。車のエンジンをかけて今から運転しようと酒田洋平は、助手席に座っているパートナーの鶴岡春香が、持ってきたぬいぐるみを見ると、思わず目を見開き、呆れた表情をしている。
「そうよ♪」春香は笑顔でぬいぐるみを見つめていた。「私とは本当に長い付き合いね。厳密に言えば10年いや15年くらいかな。この仔は、洋平より付き合いが古いし」
いつもは家から出さないのに、今日はなぜか持ち出したばかりではなく、助手席の目の前フロントガラスの内側にもたれかけるようにそのぬいぐるみを置いていた。
「でもさ、せっかくのドライブなのに、よりによってそんなボロくて破れているの持って来なくても良かったのにな」
「ボロイって言わないで！病気なんだから」そこまでいうと、春香はぬいぐるみを両手に持つ。「この仔は、ぬいぐるみの病院に入院させるの」
「ぬいぐるみの病院？？ え！今日は春香のリクエストで決めたルートだけど、もしかして途中でその病院に行くの？」驚きのあまり洋平の声が裏返る。
春香は首を横に振り「ううん、ではなくて。今日はこの仔のため、入院前のドライブよ。今日の風景を存分に楽しませてから明日か明後日、病院に送ることになるわ」
「そ、そうなんだ」洋平の顔が引きつる。「よくわからんが、見た目はともかく、意思があるわけでもないのにな......」洋平は呆れた表情をしながらハンドルを握り車を動かす。その後は運転に集中した。
この日ふたりが向かったのは、今まで何度も行くお気に入りのドライブのコース。洋平と春香はこのルートをたどってドライブするときには、特別な何かがあるときと決まっている。
春香から最初に今回のコースをドライブしたいと言われたとき、洋平は「何の記念日だっけ、そんなのなかったのに」と不思議に思っていたが、ようやく意味を理解した。
車は勢いよく道路を走行する。住んでいる町を出て高速に入った。高速を走行すること2時間余り。一般道に出ると、海が広がっている街に出る。いつもと変わらない車窓から見えるのは水平線だ。この水平線と並行してずっと海岸線沿いに道路が続いている。だからときおりその方向を見ると、いつも水平線が見えるのだ。
今日は春香が、ぬいぐるみのために、このドライブをしたいとか言っていた。そのような感情が、水平線の実際の風景とクロスしたのだろうか？洋平はいつも運転しながら何気なく見える風景と、今の景色は違うように感じた。
同様のことは、この後も続く。海の景色と別れるのはいつもの坂がある。車は急な坂を上り、その丘の上にある展望所に到着。そこは、はいつも昼食をとる場所であった。いつものように車を駐車してから、あるいて5分もかからないところにある芝生エリア。もちろん天然の芝で、季節がら新緑の青々とした色合いが芝生エリア前面に出ている。
ここでシートを敷き、いつものように春香が前日の仕込みから当日の盛り付けを頑張ったもの。手作りの弁当を食べる。普段とは違って、この後入院させるぬいぐるみの「仔」がいたことはいつもとは違う。
でもそういうのではない。洋平は目の前の風景がいつもとは明らかに違ってみえたのだ。感情的な何かがバイアスが働いているのは間違いない。少なくとも洋平の頭の中に入り込んだ何かが作用している。
車は来た道とは別のルートで戻った。今度は山が主体のところ。ちょうど田園地帯を通過し、田植えが終わり。すくすくと育った新緑の田んぼの稲穂の横を車が軽快に駆け抜けていく。やがて高速道路に入り、いつもの町に戻った。
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「今日は不思議なドライブだったな」まもなく家の戻るが、その直前に思わずつぶやいや洋平の一言。「この仔のせいかな」と春香。洋平は春香とぬいぐるみを一瞬だけ見ると小さくうなづく。
それを見た春香は笑顔でぬいぐるみを抱きしめ、「よかったわ。これでこの仔が入院して、ダメな部分が改善されるの。そうよ。もう怖がらなくていいわ。絶対に良くなるから」ぬいぐるみに対して必死で語り掛ける春香。
洋平は視線こそ前に向けて運転しているが、春香の感情がなんとなくわかる気がした。
こうしてこの日のドライブデートは終わった。「洋平、この仔のためにドライブしてくれてありがとう」春香はぬいぐるみを持ったまま洋平に一礼。洋平は、思わず口元が緩み白い歯を見せる。「いや、別にそういうつもりはなかったけど。まあ無事にそいつの新しい姿が見られたらいいな」
そのあと、口元の歯が見えないように閉じた。少し真顔な洋平がつぶやいた一言。「ぬいぐるみが良くなるのなら、そろそろ俺たちの将来も考えないといけないな」洋平のつぶやきに、春香は黙ったまま顔を下に向ける。気のせいかもしれないが、春香の顔が少し赤くなっている気がした。
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