11月第3木曜日深夜のイタリアン
「康夫もうすぐ日付変わるわね」「マリエルそれがどうしたってんだ。毎年嫌いな瞬間だぜ全く」と不機嫌に、グラスに注がれた赤ワインを勢いよく口に含むのは、フィリピン人マリエルの夫・小田切康夫。
「あ、変わった。木曜日だわ。ボジョレー解禁したみたいね」「おまえ、それを言うなといっただろ。妻でも言っていいことと悪いことがある!」
康夫はバーを経営していた。メニューの中にワインは一応あるが、あくまで蒸留酒が主体。スコッチ、アイリッシュとウイスキーには特にこだわりがある。また同じ醸造酒でも海外のビールと言った「麦」を主体としたドリンクにはこだわっていた。
だから11月第3水曜日に日付が変わるこの日は、店を臨時休業した。ボジョレーヌーボ解禁のこの日は、常連もワインの店に行くのだろうか?開業以来閑古鳥が確定しているのだ。ならば自分たちも楽しもう来たのが、とあるイタリアンのチェーン店。
「俺は酒屋から聞いているんだ。ボジョレーはコスパが悪いってね。そりゃそうだ。出来立ての新酒をこの日に間に合わせるためにフランスから航空便で輸送するそうだから」そう言って自慢の口髭を軽くなでる。
「通常のものと比べて運賃が馬鹿にならないんだってよ。だったらこのイタリアの安ワインで十分だ」すべてを言い終えると、康夫は自分のグラスにワインを注ぎ、目の前のプロシュートを食べる。
「でも、一時と比べたら、ずいぶんブームは沈静化したみたいだけど」「だけどやっぱり、俺の店には影響がある。まあいいさ。この日俺も休んじゃえば済む話だから」
マリエルは苦笑いを浮かべながらワインを口にした。「あ、このプチサイズのフォカッチャもらってもいい」「ああ、だがその手羽を揚げて、ジューシーに味付けしたものは食べるなよ」
「わかってますわ。これあなたの好物よね」と言ってマリエルはフォカッチャを口に含む。やわらかい口当たり。ワインとの相性もよさそうだ。
「それに見ろよ。あのテーブルじゃずいぶん楽しいそうだ。だから別に解禁なんて関係ないんだよ」と康夫が後ろをふる向くとマリエルもその方向を見る。
そこには若い男女5人がいて、さっきまで騒いでいたが、「じゃあお先に」と女性ふたりがちょうど帰っていくようだ。
「終電かしらね」「おう、そうだろう。その点家から徒歩圏内に店あると、気軽だな。ここ深夜遅くまで営業しているのもうれしいぞ」
チェーン店らしくここはボトルのワインが安かった。すでに半分以上を空けている。この勢いだと間もなく空にしそうだ。
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「ちょっとトイレに行ってくる」そういうと、康夫は店内のトイレに向かう。客席を立ちトイレに向かった。ちょうど途中に通路が交差する。そこから右に曲がれば出口。レジは左側にある。
「おっと、あぶねえ奴だなぁ」少し酔いが回った康夫は、左からくる男性に接触しかけて少しよろけた。対して男性は通話の最中の様子。康夫の存在を気にも留めずに、そのまま過ぎ去り出口に向かった。
「まったく、しょうがねえ若者だなあ」と言って彼が座っていたであろうテーブル席を見ると、そこはふたりになっていた。
トイレから戻ってもう一度テーブルを見る。ふたりは黙々とスマホをチェックしていた。「さっきの男は?」気になった康夫が、店の出口を見るが誰もいない。
「おかしいな... ...」康夫は残されたふたりの存在が、急に気になった。席に戻ると、入れ替わるかのように今度はマリエルがトイレに行く。するとその後を追うように、ふたりのうちのひとりがトイレに行った。「テーブルにはひとりか」康夫は口ひげに手を当てて、頭の中で想像を働かせる。
そして一分もかからないうちに先ほどの男がトイレから出たが、テーブルに戻らない。何事もないかのように涼しい顔をしてそのまま店を出たのだ。「まさか、これは!」康夫はテーブルを見る。スーツ姿で真面目そうなサラリーマンがひとりでスマホを操作していた。ここでマリエルが戻ってくる。
「おい、あのテーブルの連中らやばいぞ」「え、どういうこと?」康夫はワインを口に含むと「食い逃げの可能性がある。何食わぬ顔して最初はふたりの女性。その後は男性がひとりずつ店を出ているんだ」
「そういえば、あのグループの人たち、レジのほうには行ってないわね」この店は遅い時間は少人数体制。3人で店を回している。そのためレジには誰もいない。精算時にレジ前のボタンで店員を呼び出すのだ。
「そっちからは見えるな。もし最後の男が席を立ったら教えてくれ。レジのほうに行かなければ食い止める」「そんなことしてあんた大丈夫?」「俺は一応バーの経営者だ。そういう輩は許せねえんだよ」
そんな会話をしていると、最後の男が静かに立ち上がる。スマホを耳に当てて小声で何か語っていた。そしてレジのほうにはいかない。何食わぬ顔して向かっているのは出口だ。
「マリエル、あの男」「わかった」康夫はグラスに残ったワインを一気に飲み干すと立ち上がり、早足で出口に向かう。男よりも先に出口に来た康夫は、出口の前で仁王立ち。
「はい、あ、そうなんです。いや失礼しました」取引先かわからないが、仕事上の口調で静かに通話する男。そしてそのまま康夫の前に来るとその場を避けて店を出ようとする。
しかし康夫はここで手を伸ばしてそれを遮った。男は左右交互になりながら、どうにか康夫の前を振り切ろうとするが、康夫はその都度男の前に来て先に通さない。
「あ、ごめん。いま前で酔った親父が邪魔をして、ちょっと待って」と言って通話口に手を置くと、康夫のほうを振り向く。
「ちょっと、何ですか一体。酔うのは自由ですが、人の邪魔しないでください」「酔っているのは確かだが、ここは通さねえ」
「どういうことですか?」男は鋭い視線を康夫にぶつける。対照的に康夫は不敵な笑いを浮かべた。
「ふっふふう。あなたのテーブル最初5人いましたね。そしたら少しずついなくなって、あなただけが残った。そのあなたも出口に向かうというのはどいうことでしょうか?」
男は「ごめん後で」と言って電話を切る。「一体何が言いたいんですか?店内で電話に出て会話したら、ほかの方に迷惑でしょう。ちょっと外に出て会話を終わったら、席に戻ってきっちり清算しますよ」
「でもテーブルには荷物も何もない。つまりその証拠がないと思いますね。まさか無銭飲食?」
「ちょっと、いい加減にしてください。勝手に犯罪者呼ばわりして。名誉棄損ですよ。そんなわけないじゃないですか。いいから酔っぱらい、ちょっとどいて下さい」と男は無理やり妨害している康夫を突破しようとする。
「マリエル急いで店員を!こいつ食い逃げするぞ!」とありったけの大声で叫ぶ。これは店内に響き渡った。マリエルは小刻みにうなづくとテーブルに備え付けている呼び出しブザーを押した。大声と「食い逃げ」と言う言葉が気になったのか店内に残っていた客が少しざわついたかと思うと、一斉に康夫のほうを向く。
「何をするんだ。お前どれだけ人に迷惑かけてんだよ。いい加減にしろ!」と言って康夫の手を振りほどき、ついに殴るつもりで手を出そうとする。
しかし康夫は男に抱き着いて密着した。「こらぁ離せ。なんじゃ一体!」男は足で康夫の急所を目指して蹴ろうとするが、康夫は逆に男に体を合わる。男はバランスを崩しその場で倒れこむ。
「お客様!」店員ふたりが慌ててふたりの前に来た。もうひとりは少し遠くから「110番通報しました」との声。
ひとりの店員が康夫と男の間に入る。男は店員ふたりに腕をつかまれる。「お客様ご清算は?」最も貫禄のある年配のスタッフが男に質問した。男は首を横に振ると。
「ち、違います。迷惑にならないように通話を外でしようとしたら、この酔っ払いが急に私に抱き着いて! そしたら大声で勝手なことを言って僕を貶めるのですよ。全くの濡れ衣です。僕ではなくてこの人をどうにかしてください」と、男は店員の前でわざと弱気になる。
「店長やっぱりそのようです。お客様このレシートは!」と三番目の店員がレシートをもって駆け寄ってきた。
「え、いや電話をしたらその」
「確か5名様でいらっしゃいました。それで少しずつお帰りになられて最後まで残られた人が清算を済まされるのが普通ですよね」
店長と呼ばれた年配のスタッフは、男が明らかに無銭飲食未遂であることを断定したのか、先ほどより語気を強めて男に問いただす。男は無言になりうなだれる。
やがて警察官が店内に入ってきた。「あ、この男です」店長は男を指さすと。「わかりました。では、え、店長さん」「あ、はい」
「ご足労ですが、交番でお話を聞かせてもらえますか?」と言って男を羽交い絞めにする。男は「行きます。逃げません。手を放してください」と言った。
警官は手を放したが、周りを数人で囲み、スキを与えない。こうして男と店長は事情徴収のために交番に向かうことになった。
「おまえ、なぜわかった」店出る前に、男は絞り出すように康夫に声を出す。
康夫は待ってたとばかりに笑顔になり「私は小さなバーを経営していましてね。お客様の動きは一目瞭然なんです。もしよろしければ、お待ちしていますよ。もちろん現金払いで」といって、胸ポケットからネームカードを男に差し出す。
男はそれを受け取らず、黙って康夫をにらみつける。康夫は口元を緩めて営業スマイルのまま。ただ眼光だけは鋭い。
そして男はそのまま警察官に連れていかれるのだった。
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シリーズ 日々掌編短編小説 303
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