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アンコールは近い? 第656話・11.9

「日付が変わったから、今日はカンボジアが独立した日だってね」「おい、血迷ったか!今それどころではないのに。いったい何を言っているんだ?」 
 哲也は妻の裕子にきつい一言を浴びせる。「だ、だって、こんなことでも考えないと。現実逃避したいわ。」
「ああ、それをいうな! 俺だって、クソッ」哲也は怒りをどこかにぶつけたいが、その場所がなく余計にいらだった。目の前には暗がりでもわかる。一部が真っ黒に焦げた工場の建物。

 哲也は換気扇のメーカーの社長である。従業員を50人くらい抱えていて、住宅地の一角に小さな工場を持っていた。ところがこの日の深夜に工場近くから火災が発生。すぐに119番をしたために、どうにか火は消えた。しかしそれでも影響は大きく、工場の3分の1くらいは焦げてしまっているようだ。
「結局は明日、工場がどうなっているかにかかっているな」哲也は小さくつぶやくと肩を落とす。同じように、打ちひしがれるように、うつむいた裕子と寂しく一旦家に戻ることにした。
「現実逃避かもしれないけど、来年こそ本当にカンボジアに行きたかったのに......」裕子は「わかるが、どうなんだろう。この被害次第だろうなぁ」哲也はため息をつく。

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 ふたりがカンボジアに興味を示したのは2019年の秋ごろ。「アンコール展やっているわ」と、裕子が博物館のチラシを持ってきたことから始まった。「ほう、アンコールワットか、面白そうだ」
 こうして会社が休みの日にふたりはアンコール展を見に行った。そしてクメール美術の美しさにしっかり魅了されたふたりは、2020年の春から夏にかけてカンボジアのアンコールワットを見ようと計画を立てていた。しかし2020年から21年に入ったこの時期、とても海外に行ける状況ではなくなってしまう。

「いつか行ける。そのときまで」裕子は本当に行きたくて仕方がないようだ。その熱中ぶりがすさまじい。彼女はカンボジアの歴史を調べ始める。図書館で本を借りたり、ネットからいろいろ情報を調べたりで、いつしかカンボジアの古代の王朝の頃から、20世紀末まで続いた内戦の話まで、分かる範囲で調べつくしていた。その熱意には哲也も舌を巻きざるを得ない。

「来年は可能性ありそうよ」3日前に裕子がつぶやいた。「かもしれないな。そういう空気がある」哲也も同意。いましばらく様子を見る必要があるが、雰囲気的にも2022年の夏ごろには行けそうな気がしてならない。「アンコールが近づいているの」と裕子も嬉しそう。だからそのときまで、いろいろ計画を立てていた矢先に、この火事が起こったのだ。

「1953年の今日カンボジアがフランスから独立した日。この後もこの国は内戦が続いて大変だったけど、それでも大事な日には変わりない。よりによってこんな日に......」
「なんだろうな。俺もそれは思うよ。アンコールが少し遠くになったかもしれないが仕方がない。今日はもう寝よう。細かいことは明日から考える」いつの間にか家に戻ったふたり。以降は口数も減ったまま眠る。

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 翌日、哲也はいつもよりも早く起きた。それは裕子も同じ。「ちょっと早いが会社を見てくる」「私も行くわ!」裕子は会社の従業員ではないので、直接かかわらないが、この日ばかりは気になって仕方がなかったようだ。「ファアアア、やっぱり眠れなかった」と大あくび。
「でもね。アンコールワットが私の目の前に見えたの。暗闇からどんどん浮き彫りに出てくるようにね。だからやっぱりアンコールが近い気がするの」
「ハハハアハハハッハ! それ寝てるよ、夢見てたんだって」と、哲也は笑う。笑っているが、いつもよりも大声を出していて強引に笑っているだけなのかもしれない。

 家から5分もかからないところに工場はある。そして工場の前に来たふたり。その状況を見て驚いた。「あれ?」ふたりとも思わずお互い顔を合わせ、もう一度工場を見る。そして目が大きく見開き目が覚めた。なぜか工場には全くダメージがない。
「どういうことだ、焼けていない」「え、消防車も来て大騒ぎだったのに。まさか夢」「ばかな、ひとりならそうかもしれないが、同時にふたりが夢で会話するわけはない」呆然と立ち尽くすふたり。

 だがよく見るとわかった。燃えていたのは隣の工場。その建物には半焼している跡があった。「夜中だから見間違えた......まさか」哲也は首を何度もかしげる。
「隣の人があれでは、正直喜んでいいのかわからないわ」裕子も複雑な表情。しばらく固まった。

「社長、おはようございます!」社員のあいさつで、我に返る哲也と裕子。「お、おはよう。早いね」「いえ、社長こそ。今日は僕がカギを開ける担当なので」
「そ、そうだな。じゃあ頼むよ」ようやく哲也に笑顔が戻る。同様に笑顔になる裕子が一言。「本当に日本語がうまくなったわね彼」

「おう、サムヘンな。うん、カンボジアにはまった君のおかげで、思わすカンボジア人を雇ったが、彼は優秀だ。最初は少し片言の日本語だったのに、本当に流ちょうになったものだよ」
「あれからさらに3人増えて、あ、今日面談?」「そうそう今日の午前中だ。これで採用するとなると5人か。工場にカンボジア人の社員が増えると、気のせいかアンコールワットへの道はさらに近づくぞ」
 哲也はそう言って、裕子の手を握る。そしてナチュラルに笑った。

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シリーズ 日々掌編短編小説 656/1000

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